その他

白川義員山岳写真全集

  • 表紙
    白川義員山岳写真全集全6巻日本版

  • 表紙
    イタリア版

  • 表紙
    スペイン版

  • 表紙
    フランス版

  • 表紙
    ドイツ版

  • 表紙
    ポーランド版

  • 表紙
    スロベニア版

本書概要

撮影
1954~1981年
出版
白川義員山岳写真全集全6巻1982年~1983年(各巻8,000円)小学館
イタリア版 1991年 MONDADORI社
スペイン版 1991年 ANAYA社
フランス版 1991年 SOLAR社
ドイツ版 1991年 VERLAG J.BERG社
ポーランド版 1993年 MUZA社
スロベニア版 1993年 DRZAVNA ZALOZBA社

■個人の山岳写真全集出版は日本では初めて。世界でも例がないと思われる。

■第4巻掲載の「リッフェル湖からのマッターホーン」について

リッフェル湖は谷底の凹地にある小さな池だが、雰囲気が極めて不気味で地元の人たちもほとんど近寄らなかった。

私はこの写真を撮りたい一念で6年間天気のいい日は必ずこの湖のそばに立った。が、妖気がただよい鳥肌が立って、夜明け前に1人でここにいるには相当の勇気が必要だった。

その後1枚の写真に6年間かけた話が有名になり、NHKが「世界我が心の旅」で取り上げたため、5人のスタッフと昔に久しぶりに早朝この地に立ったが、彼等も気味悪くて鳥肌が立つといっていた。

1970年台はじめ7ヶ国語版になった『アルプス』にはオレンジ色の「リッフェル湖からのマッターホーン」を縦位置写真で紹介した。

この本が出た頃からこの不気味なリッフェル湖に人々が集まり始めた。1991年この山岳写真全集第4巻が7ヶ国語版になって出版され、真っ赤な「リッフェル湖からのマッターホーン」が横位置見開き2ページで紹介された直後から、このリッフェル湖に人々が押し寄せ、夏場の晴天の日には1日3000人もの人が集まるそうである。

特に日本人は勝手にこの写真をさかさマッターホーンと名付けて、登山電車終点のゴルナーグラートからこのリッフェル湖からのマッターホーンを眺め、リッフェル・アルプに至る2時間のハイキングコースを入れないとツアーが売れないといわれるほど有名な観光名所になった。1枚の写真が世に与える影響は決して小さくはないのである。

▲とじる

収録作品

  • 内容写真01
    第1巻「錦秋と火の山」から

  • 内容写真02
    第2巻「神います峻嶺」から

  • 内容写真03
    第3巻「太古の世界」から

  • 内容写真04
    第4巻「光と原色の交響曲」から

  • 内容写真05
    第5巻「極北の山河」から

  • 内容写真06
    第6巻「明闇の造型」から

▲とじる

本書のあとがき

白川義員山岳写真全集第一巻「錦秋と火の山」あとがきより

(前半略)

この全6巻の内容については、前述のとおり、自然こそが偉大で永遠なのだという私の想いでつらぬいている。アーノルド・トインビー氏の論をまつまでもなく自然なくして人類はあり得ない、つまり“地球再発見による人間性回復へ”という私のライフ・ワークのテーマによる。自然や風景は単なる地理学上の対象ではなく、そこに住む人間の歴史的な精神のパースペクティブ上にある。自然や山はただ単に石や岩が堆積しただけの物質的存在ではなくして、その背後に偉大な精神の存在があると信ずる私の信念による映像である。人間は偉大な精神の存在を信じ、その存在に畏敬の念を持ったが故に今日の精神的発展を遂げたのである。正確にいうならば、人間は動物の中でも最も若い動物で、今人間になりつつある現在進行形の存在であることを謙虚に認識しない限り、人間そのものが今日陥っている未曽有の混乱から脱し得ないであろうというのが私の思想である。

全6巻を通して見ていただければ、これらの撮影における私の基本理念をご理解いただけるのではないかと思うのである。宇宙的視野から見れば、我々の地球はまさにケシ粒の如き一惑星にすぎない。しかしその惑星がいかに鮮烈で荘厳で神秘的な美しさに満ちているか、そのかけがえのない地球の様をあらゆる人々に見ていただき、考えていただきたいと願うのである。

本書に掲載した作品でも初期の撮影分は15年前の1967年、つまり6年間に及んだヨーロッパ・アルプスの撮影を終了し帰国後、ただちに日本を撮った写真である。その後1971年ヒマラヤ撮影直後や、1974年アメリカ大陸撮影後、そして最も新しいものに『聖書の世界』後の1980年のものが若干ある。昨年は『聖書の世界』の作品展を巡回中に突然アメリカで受賞し、その特別展が海外23か国で開催され、それと国内巡回が重なり、しかも11月から中国取材開始というスケジュールに忙殺されて、国内では全く1枚も撮影しないという異常な年になった。

紅葉は夏季の日照時間が多い年でないと見事な紅葉は望めない。かつては4年周期との説もあって、1967年は日本中が素晴らしい紅葉に染まったのだが、その後は4年後も8年後も駄目であった。日本の紅葉を撮りたいがために、ヒマラヤやアメリカ大陸の撮影日程をそのように組んだ訳ではもちろんない。私の場合、1個のプロジェクトが完成するまでに普通3~4年かかるために、日本に滞在するのが偶然紅葉がいいといわれる年に重なることになったのだが、やはり67年の紅葉は最高のようであった。私が海外取材の間も日本にいる友人の山岳写真家達はほとんど全員が紅葉撮影に出かける。したがって帰国後いろいろと情報を収集するのだが、公害の影響もあるのであろうか、一昨年のセント・ヘレナ火山の大爆発による天候不順は別としても、近年は目のさめるような紅葉にはなかなかお目にかかれないようである。

紅葉撮影でもう一つ意のままにならないのに山の天気がある。山岳地帯における紅葉の寿命はせいぜい1週間であるから、もしもその間ずっと雨が降ったら、その年の紅葉撮影は終わりである。例えば北アルプス最大の紅葉の名所・穂高の涸沢の場合、例年10月3日から10日の間がその時期に当たり、3日から6日くらいの間に木々が黄色から真っ赤になる。そして10日頃には大抵新雪に襲われて、一夜にして1枚残らず葉っぱは落ちてしまう。北アルプス全体が一夜にして黒い禿山と化すのである。したがって真紅になるこの2~3日間の天気が、総てを決めてしまうことになる。

この時期に、たった1週間でいいから穂高の涸沢に入り、紅葉が進行するプロセスと、燃え上がらんばかりに真っ赤になった山々が、一夜にして黒い禿山と化す様を見れば、誰しも大自然の営みの深さと不思議と畏れを肌で感じない訳にはいかないであろう。なにもわざわざヒマラヤの氷河の上を歩いてみたり、大海のように無限に広かるシナイ半島の砂漠を、砂の上で寝ながら旅をする必要はない。あるいはまた、この中国は峨眉山の頂上で雲海を歩きながら仏光を拝すまでもなく、ハイヒールでも歩いて行けるごく身近な涸沢でよいのだ。そこで数日間風景を見るだけで、自己の人生や人間について考えないではすまされない、少なからぬショックを受ける体験を持つことができるのである。

自然と全く隔絶された人口社会に沈潜したまま、大自然が演じる壮大なドラマに感動する機会もなければ、衝撃を受ける体験もなく、自然とは無縁の根なし草となって漂っているところに、現代社会の精神の荒廃の根源を見るように思うのである。

(峨眉山 金頂にて1981・12・3)

第一巻撮影ノート

写真で表現するということは、写真以外では表現し得ないもの、写真でなければ表現し得ないものの表現にある。その第一は徹底的写実である。記録という言葉を使ってもいいが、ここでは写実の方がリアリティがあると思う。先だってNHKテレビが外交交渉の決め手は情報にあるという番組を放送していたが、その中でアメリカの人工衛星が撮影したある都市の写真をとり上げて、その一部分を徐々に拡大して見せたのである。最初の全景写真から見れば、まるで1つの点でしかないが、それを拡大すると1軒の家とその庭のプールが見える。これだけでも驚きであるのに、そのプールを再び拡大すると、今度はイルカが1頭泳いでいて、プールのそばに人間が1人立っているのが、はっきり見えてくるのである。これこそ写真でなくては表現し得なし、表現である。いかなる名人が絵で描いたとしても、1ミリの線の中に描き込める量などはたかが知れている。それを拡大したからといって、プールが見えて、イルカが現れてくるようなことはないであろう。拡大すればボケるだけのことである。つまり写真による表現には1ミリの線の中に、1本の髪の毛のごとき細い線の中に膨大な情報がつまっていることである。

かつて写真家は、この強力で特異な表現手段に気づかず、こぞって写真でもって絵の真似をしたのである。写真家が馬鹿にされた所以であった。また今日も10数年来、わざと粒子を荒らしたり、カメラブレをさせたり、空だけ撮ったり、水の面だけ撮影して、一見思わせぶりな写真を作り、それが今日の日本写真界の主流をなすほどの流行りようであるが私はそのような方向をとらない。写真でなくては表現できない写真の特質を生かし、可能な限り被写体の細部まで、肉眼では見えない微細な点や線も総て写し撮る──写真でなくては表現できない表現を心がけて、この『日本』など全6巻を作った。いわば、徹底的写実に徹した。写実というと絵の場合の写実を連想して言葉がプアーになるが、断るまでもなく私の提唱する写実は、自己の思想感情を独創的に表現する写真本来の写実である。

(中略)

第二に私のライフ・ワーク“地球再発見による人間性回復へ”も、写真でなくては表現し得ないテーマである。あとがきでも少しふれたが、我々人間が生息している地球が、このように鮮烈で、荘厳で、神秘で美しい、と文章で書いたところで誰も信用しないであろうし、絵で描いたところで同様である。それらは文学作品として、または美術作品として芸術性豊かに優れていれば、それを味わう人間は確かに感動するであろう。しかし感動する心とそれを現実に真実であると信じる心とは別である。過日、東京のホテル火災で、一男性が火に包まれた部屋からあわやという一瞬はしご車に救助される様子がテレビ中継されたが、それは事実であるから、あれだけはらはらし、感動するのである。あれが作りごとのドラマであったら誰も手に汗にぎったりはしない。

写真は文学や絵と違って、少なくともカメラの前にあるものはそのまま写る客観的事実である。だからこそ人人はなるほどと信じるのである。真実であるからこそ共感と感動を呼ぶのである。

地球再発見シリーズにおける私の思想や感情は、写真でなくては表現し得ないのである。

白川全集第4巻「光と原色の交響曲」あとがきより

(前半略)

マッターホーンにおける彼岸の世界の映像化には失敗したが、他の地域で6年の間にこれも気が遠くなるようなこの世の出来事とは思えない、まさに彼岸の世界の風景に幾度か出会った。そのひとつはメンヒである。グリンデルワルドから登山電車でアイガーの裾を巻いて登ると、クライネ・シャイデックがある。ここから見える4099メートルの山がメンヒで、アイガーとユングフラウの中間に位置している。

 

登山電車を乗り換えてユングフラウヨッホに行くには、このメンヒの山中をくり抜いたトンネルを通ってメンヒとユングフラウの中間の肩に出ることになる。ヨッホのホテルを朝3時に出発し、ヘッドランプをつけて真っ暗いメンヒの稜線を3時間登ると頂上である。

ここから見る日の出の風景は物凄い。太陽はグロス・フィッシャーホーンのかなたから現れてくるのであるが、これも天地を真っ赤に染めて、これがこの世の風景かと一瞬疑うほどで、私など自分の腕をつかんで感覚を確かめたほど、それほど荘重で荘厳である。これが現実の風景なのだと自分にいいきかせながら撮影してゆかないと、マッターホーンの時のように茫然と見とれてしまいそうな超現実の風景であった。日の出の撮影を終了して下山の途中も、自分の足元の稜線から地平線のかなたまで続く雪の色が刻々と変化してゆくのがはっきり分かるのである。

シャモニーのラック・ブランから眺める日没後の針峰群の風景も格別であった。モンブラン山群からシャモニーの街をはさんで反対側に立っているエギュ・ルージュの山の中に、雪が解ける7、8の2か月しか現れない湖がある。この湖にも何度か通ったが、山小屋が閉まったあとであるから、新雪がくる9月上旬であったと思う。

日没直前の赤くなったモンブラン山群を撮影し、暗くなってきたので撮影機材をザックにつめて、さて下山しようと思ったら、グランドジョラスの上に満月が出た。風景はいつの間にか真っ青になっている。これは凄いと立ち上がったが、写真を撮る意欲が全く湧かないのである。

この神秘さはやはりただごとではないと思いながら風景を眺めていた。何か宗教的な畏怖を感じさせる恐ろしいほどに荘厳な雰囲気を持っていた。

とにかく6年間天気さえよければ、4000メートルの稜線から真っ赤に燃え上がる日の出の山々や雲や、天空が黄金色に輝く日没の風景を毎日眺めた。また、氷河を歩きながら純白の峰を仰いで、その美しさにも感嘆した。毎日、感嘆と感動にひたっていたのである。そして我々が住んでいる地球、それは宇宙的視野から見ればまさにケシ粒ほどもないただの一惑星に過ぎない地球が、これほどまでに鮮烈荘厳で神秘な美しさに満ちている様をほんとうに認識している人間は、この地球上にいったい何人いるであろうかと考えたのである。

我々人類にとって地球は唯一無二である。まさにかけがえがない。その地球が、かくも美しいという事実を、私のカメラを通してあらゆる人々に伝えることができたなら、写真家としてこれほど素晴らしいことはない。“地球再発見”という思考が生まれたのは、この6年間のアルプスの感動的体験によるものであった。

“地球再発見”から“人間性回復へ”と発展していく過程については『アメリカ大陸』や『聖書の世界』三部作のあとがき等でふれたが、一口でいうなら自然はただの“物”ではない。人間は山や谷をただの有や岩が堆積しただけの物質として見たのではなく、自然とその背後にある偉大な精神の存在を信じ、精神の存在に畏敬の念を持ったが故に、人間が猿ではなくて人間として偉大な精神的発展を遂げた。猿が人間になった理由については、アインシュタインやトインビー教授の説を持ち出すまでもなく、これ以外にはないのだ。

アインシュタインは「宇宙の秩序と統一に対する根本直観にもとづく畏敬の感情」という言葉を使って、それを説明している。相対性原理を見出す過程において、彼は自然と宇宙に大きな畏れを持ったに違いない。またトインビー教授は「自然なくして人類はあり得ない」と明言している。

それは人類にとって自然は精神のパースペクティブ上にあるからで、精神の存在がなければ人類にとって自然などどうでもよい。

つまり、人間の魂の復興、人間たるゆえんへの心の回帰、それらは自然に遍満する精神の存在に敬虔の念を持つことといってよい。

さて自然はただの物質ではなく、そこに遍満する精神の存在を、「祖国とは何か」という別の側面から考察してみたい。

昨年全米写真家協会から最高写真家賞を受賞し、ニューヨークで受賞式のあと私のライフ・ワークの理念について記念講演した。翌日ロックフェラー・センターのニコン・ハウスで受賞記念特別展のオープニングのパーティーがあり、その会場で前日講演を聞いたというある写真家から、自然に遍満する精神の存在という意味がよく分からない、別の言葉で説明できないかという質問を受けた。私の思想はキリスト教ユダヤ教を問わず、イスラム教も含めて一神教とは矛盾する部分を持っていることも事実である。ただこの間題を述べるには紙数がないので他にゆずるとして、今にして思えば、キリスト教徒からこのような質問が出るのは当然であったようにも思うのである。

さてアメリカ人に説明するのにべトナム戦争を引き合いに出した。当時ベトナムに送られることを拒否して、多数の青年がヒッピーになって国外に逃亡した事実は周知の通りである。徴兵された青年が有無を言わせず頭を丸刈りされるため、若者が全員長髪にして反抗したのも記憶に新しい。これがもしミネソタやワシントン州が北から侵略されたのだとしたら、青年は国外に逃亡しないで戦うだろう。なぜならアメリカの国土はアメリカ人にとって祖国だからである。

では祖国とは何かとなる。祖国とは山や谷や丘や森林などの土地や自然を対象としたただの“物”ではない。そこに住む住民や民族の精神が存在する土地であり、自然であるから祖国なのである。アメリカ人にとって彼らの民族の精神と無縁に存在するベトナムで命を捨てることなど、死ぬ人間から言わしめれば、命を引き換えにしてまで守る価値などとうてい認められないただの土地であり、自然であり、“物”にすぎない。

例えばある人間が別の国家に移住する場合を考える。移った当初は祖国はやはりかつての国であり、現住する国家を祖国とは考えられないのは当然である。しかし何代か住むうちに周囲の土地や自然と精神の交流が行われ、彼らが自然と切っても切れない重要なかかわりを持つに至った時、彼らにとってその土地や自然が郷土となり祖国となる。しかし、いかなる辺境の土地と都市とを問わず、人類は長年にわたって自然と切るに切れない重要なかかわり合いの中で偉大な精神の発展を遂げたのだ。

日本国について考えてみる。例えばフォークランドの方向で4つの島が外国の軍隊に占領されたとする。日本国は自衛隊を送ることなどあり得ない。ナンセンスである。しかし日本の国土が侵略されたなら、自衛隊だけではなく、国民も立ち上がるであろう。それは数万年にわたる日本の民族の精神の存在が侵されるからである。日本が外敵に侵略されることはただ単に土地という“物”が武力で強奪されるということではない。それは日本民族の精神が侵されるということであるから重大なのである。

自然はただの“物”ではなく、そこに住む住民のまたは民族の痛神のパースペクティブ上にあるとする私の考えは“祖国”という概念からも証明され得ると思うのである。自然と自然に遍満する精神の存在、それを否定するならば祖国という概念も成立し得ない。

先月日本に帰国した際、久しぶりに出身地である愛媛県川之江市に帰省した。私が子供のころ毎日仰ぎ見た鳳凰山脈の頂上稜線に、巨大な鉄塔が何百本も立ち並んでいる。恐らく電力会社の送電線であろう。

全くひどいことをするものだと思った。春は水田のかなたの霞の中に浮かぶ山脈を眺め、夏は青々として間近く見える山の上に入道雲が渦巻いていた。秋は黄金色の稲穂が地平線まで続き、その先に少し色づいた山があった。冬は寒々とした畠の向こうに真っ白い山脈があった。それらの四季おりおりの鳳凰山脈の風景が私という人間の人間形成に大きく影響したことは言をまたない。

これからの子供たちは何を見て精神的に成長するのであろう。そこに住む住民や民族の精神の存在を侵すなら、それは外敵による祖国の侵略と同断である。今日の日本国には自からの手によって外敵に侵略されることと同じ国土の侵害が随所で進行しているのではないのか。人間が自然との精神のかかわり合いを放棄し、または断たれた時、精神の荒廃が始まるのである。

今、私は内蒙古の大草原の真ん中にいる。心身ともに洗い清められる神々しい手つかずの大自然が見渡す限り私の周囲をとり巻いている。この清らかな喜びを何と表現していいか分からない。かつて日本にも同様な汚れなき美しい自然があった。それが物欲のためにカネに換えられたのである。

今日もなお続々と自然を略奪してカネに換えつつある。必ずや遠くない将来、人間が人間自身の荒廃した精神によって、自然に報復されるであろうことを恐れている。

(1982. 8. 30 中国・内蒙古・西鳥旗にて)

▲とじる

その他

  • 表紙
    白い山

  • 表紙
    白川義員

  • 表紙
    白川義員の世界

本書概要

出版
白い山 1960年(定価800円)朋文堂
白川義員(昭和写真・全仕事シリーズ2)1982年(定価2,000円)朝日新聞社
白川義員の世界 1991年(定価28,000円)毎日新聞社
ほかに『南極撮影12万キロ』他9種類の著書がある。

▲とじる

収録作品

  • 内容写真03
    「白い山」から
    八甲田大岳モノクロ

  • 内容写真02
    「白川義員」から

  • 内容写真03
    「白川義員の世界」から

▲とじる

本書のあとがき

「白川義員の世界」撮影30年をふり返る

全世界にプロの写真家が何十万人いるかはしらないが、私ほど許可を必要とする撮影をしている写真家はそう多くはないであろう。そして不可能と思われた許可をいちいち取りつけることができた最大の要因は、日本国外務省をはじめ在外公館の援助があったからである。ヒマラヤ諸国では特命全権大使が許可取得の陣頭に立って下さった。日の丸の国旗をつけた大使専用車に私を伴って相手政府の大臣や次官に直談判してくれたりもした。外務省には内規があって、大使が動くのは政治問題と高度な経済問題に限られるそうである。文化事業で大使が動いたのは日本の外交史上私のヒマラヤ撮影の許可取得が初めてであったと後年係官が教えてくれたが本当にありがたいことであった。

聖書の映像化でイスラエルやアラブ諸国でも在外公館の非常なお世話になった。イスラエルの許可取得では防衛駐在官まで快く交渉に動いてくれたが、公館の援助がなかったら私の仕事は半分も成り立たなかったに違いないのである。

仕事が成功した第二の要因ほ、私自身にとって驚きであるが、各国の高官が私の『アルプス』や『ヒマラヤ』を実際に持っていたことである。シナイ半島は当時イスラエルの占領下であった。その全域を航空撮影する許可取得について、シナイ半島の統括責任者が事もあろうに私の『ヒマラヤ』を持っていて、大変な山ファンで私の名前をずっと以前から知っていたというのである。シナイ半島のエジプトへの返還が決まり、困難な撤退作戦と混乱の直前のシナイ半島におけるジープの旅と航空撮影が許可された要因の一つは、過去に出版された私の本にもあったわけである。

シナイ山の頂上に小さなモスクがあり、この使用権は、その頃モーゼの故事にならい40日40夜山ごもりしているドイツ人女性シナイ・モーリアさんが持っていた。イスラエルの担当者はお堂に入れてくれるかどうかはその女性次第ということで、我々は頂上での野宿を覚悟で登った。ところが私を白川と知って私に抱きついてきた。以前から私のファンだったそうである。おかげであの寒い頂上で私も助手も野宿せずにすんだが、気がついたらその女性が野宿していたのである。申し訳ないことであった。山ごもりの間に小さなお堂の中で男性と一緒に寝るわけにはいかなかったのであろう。

イラクの文化省の担当局長が私の『アルプス』を持っていた。これにも驚いた。

エジプトでスエズ運河やナイル・デルタの撮影許可についてカイロのプレス・センターの責任者に世話になって成功したが、彼は私がアメリカで出版した『エターナル・アメリカ』(『アメリカ大陸』の英語版)を持っていた。

私の作品集は日本国内より外国で出版される部数のほうがはるかに多い。それらの本が、つまり過去の私の仕事が、今、少しずつ役に立ち始めたのである。終始一貫、くそ真面目に「地球再発見」と馬鹿の一つごとのように必死にやってきた仕事が、各国で広く評価され始めたことが何よりもうれしいことである。1962年にプロ写真家として独立して、あと1年で30年である。よくも死なないで生きてきたものと思う。ヒマラヤでは幾度も死線をさまよった。全くの無神論者が神を信じたのであるから、よほどのことがあったのである。それらは『ヒマラヤ』や『山岳写真全集』等のあとがきに書いた。

私の仕事は一つのテーマで3年から4年かかるが、各々が終わるたびに15キロから20キロ痩せる。『アルプス』で15キロ、『ヒマラヤ』で20キロ、『アメリカ大陸』で15キロ、『聖書の世界』で15キロ、『中国大陸』では18キロ、『仏教伝来』では15キロ痩せた。20キロ痩せると入院して加療しないと元通りにならない。私の場合は1か月間昏睡状態が続いた。2本の足でちゃんと立ってまがりなりにも仕事ができるのは18キロ減が限度のようである。18キロでも股(もも)が丁度腕くらいの細さになる。15キロで人相は完全に変わるから、『聖書の世界』の撮影が終わってイスラエルのベングリオン空港から帰国の際、パスポートと別人と判断されて、日本国大使や東京在イスラエル大使館の推薦状を持っていたが、それでも出国させてくれなかった。

1981年にアメリカで最高写真家賞をいただき記念展を開いたが、それは当時過去の仕事でなくなった体重が、私の体重と同じ65キロで、すでに私はこの世にほいないのだという記念展でもあった。しかしその後『中国』でまた18キロ、『仏教伝来』で15キロ痩せたから、消えた体重の合計は現在98キロである。どの仕事も楽に通過できたものは一つもなかった。零下50度の氷の山やプラス50度の灼熱の砂漠を歯をくいしばってはいずり回った。一番情けないのは高山病である。足腰があやつり人形のようにばらばらで、立てないから、ピッケル2本を両腕で支えて足をもち上げるのである。これで6000メートルにも登ったら体力も精神力も使い果たして顔形が変わってしまう。一念岩をも貫くという念力を信じて、死ぬ気で登るしかない。写真を撮りたい一心とはいえ、どれもこれも困難な仕事であった。

(1991年9月)

▲とじる

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PROFILE

1935年愛媛県生。
日本大学芸術学部写真学科卒、
ニッポン放送入社文芸部
プロデューサー、フジテレビを
経てフリー写真家。

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