日本版 ヒマラヤ
日本版 ヒマラヤ
(愛蔵版)
日本版 神々の座
米国版 HIMALAYAS
(豪華版)
米国版 HIMALAYAS
(普及版)
米国版 HIMALAYAS
(高級版)
イタリア版
インド版
ドイツ版 HIMALAYAS
本書概要
- 撮影
- 1967~1970年
- 出版
- 日本版 ヒマラヤ 1971年(定価28,000円)小学館
- 日本版 神々の座 1971年(定価1,000円)朝日新聞社
- 日本版 ヒマラヤ(愛蔵版)1975年 (定価7,200円)小学館
- 米国版 HIMALAYAS(豪華版)1973年 HARRY N. ABRAMS社
- 米国版 HIMALAYAS(普及版)1977年 HARRY N. ABRAMS社
- 米国版 HIMALAYAS(高級版)1986年 HARRY N. ABRAMS社
- イタリア版 HIMALAYAS 1976年 ARNOLD MONDADORI社
- インド版 HIMALAYAS 1977年 VIKAS社
- ドイツ版 HIMALAYAS 1977年 BIBLIOTHK社
■これまで世界各地で出版された『ヒマラヤ』写真集は、例えば入山許可不用のネパール・ヒマラヤの一部、アンナプルナヒマールのそのまた一部を撮ったものだけで構成されていた。白川の『ヒマラヤ』はブータンからアフガニスタンまで大ヒマラヤ3000キロの全貌を初めてとらえた前人未到の仕事である。また、ネパールとアフガニスタン両国で国王陛下から乗用機が提供され、ネパール・ヒマラヤとアフガニスタン・ヒンズークシュの空撮写真が史上初めて収録されたことも特筆される(ちなみにアフガニスタン国王は撮影の6ヶ月後にイタリアに亡命した)。なお、この作品集『ヒマラヤ』には巻頭にネパール国王陛下より序文を賜った。個人の著作に国家元首が序文を書いたのは歴史上初めてである。
■1971年12月4日(土)から19日(日)まで15日間(※12月9日(木)は定休だった)東京新宿の小田急百貨店で「『神々の座』白川義員ヒマラヤ写真展」が開催された。3mx4mの大作10点を含む102点で構成され壁面全長220mにもなる大写真展だが、あくまでも白川の個展である。この写真展に15万6,000人が押し寄せた。写真以外のジャンルを含め、個展に1日平均10,000人を超える鑑賞者が詰めかけた例は少なくとも日本にはない。展覧会関係者はこれを"事件"と呼んで驚愕した。
■1973年発行の米国版『ヒマラヤ』について辛口批評で知られるニューヨークタイムスは、1973年12月2日の紙面で『もし我々が神の写真を撮る為の人物を選ぶなら、それは疑いもなく白川氏』と書き最後は『この写真集は不滅の驚くべき本である』と結んでいる。
クリスチャンサイエンスモニター12月5日の紙面で、『まさに金字塔を築いた書物。』
ロサンゼルスタイムス12月8日『まことに信じがたいほど素晴らしい写真集。』
ワシントンポスト紙は12月9日の紙面で、『どのような賛辞を贈っても誉め尽せない写真集。』
ボストンイブニンググローブ12月23日『この大作は本と同じだけの金の価値がある間違いなく驚くべき傑作集である。』等々全米の18紙が絶賛した。
デンバーポスト12月25日『地球上における壮大さの極限を表現したそのまた極限の最も偉大な本である。』
収録作品
エベレスト
マチャプチャリ東壁
チューン・ゼルア峠からの
ジャヌー
ラムジュン・ヒマール北面
マチャプチャリと月
本書のあとがき
ヒマラヤが“第三の極地”と呼ばれてから、すでに久しい。久しいが今だに"極地"のままで、ヒマラヤを覆ったベールは、なかなかはがれそうにない。8,000m級の山の頂きはすべて人間の手に落ちた。しかし地理的に解明されたのは、地図上のただの点に過ぎない。
我々は言葉としてのヒマラヤは知っている。山岳畳重として連なる地域である。中生代には、テティス海の海底にあった。世界に勇名をはせたグルカ兵のグルン族が住んでいるなど、知識としてのヒマラヤは知っている。しかしそれらは実に断片的な知識であるのみならず、いったいどこにどんな山がどのように連なっているのか、感覚としてヒマラヤを感じることの出来る人間は、地球人口の何%であろう。0.1%以下であることは確かである。
西欧に"見る事は信じる事である"という諺がある。この0.1%にも満たない、いわば未知の世界を未知の人間に伝えよう……しかも、真実の姿を伝える。これがこの「ヒマラヤ」出版のひとつの目的であり、意義である。それは写真家として、誰かが是非やらなくてはならない仕事である。文章や絵画で描いたものではなく、真実を伝えるという点で写真以上に強力な武器はない。
ヒマラヤは東のブータンから西のアフガニスタンまで7か国にまたがり3,000kmに及ぶ壮大な大山脈である。3,000kmというと北海道・稚内から台湾・台北に至る距離である。その広大な地域に8,000m級が14座、7,000m級が数百、6,000m級となると無数にあって、正確な数を数えることは不可能といわれる。したがってこれだけの地域を1人で克明に踏査することも不可能である。
いま想い出すままにヒマラヤを踏査した人間を列挙しよう。まず西遊記の三蔵法師が天山越えをやって、「大唐西域記」を書いた。千数百年前である。西欧人では、マルコ・ポーロがパミール越えをして、「東方見聞録」を残した。1848年になって、フーカーが「ヒマラヤ日記」を書いた。踏査したのはシッキム・ヒマラヤである。シュラーギントワイト兄弟がガルワール・ヒマラヤを歩き、イギリスの登山家グレアムが初めてシッキムとガルワールの雨域を歩いた。同じくイギリスの青年将校ブルースがインドに赴任して、グルカ兵を連れ、"ヒマラヤの覆いを取り去った"といわれる程歩いたが、ネパールは鎖国状態で、肝心のネパールには一歩も入れなかった。
フレッシュフィールドとビットリオ・セルラがバルトロ氷河とカンチェンジュンガ一周をしたのが最も広範囲な踏査といえようか。しかもこのイタリア人、ビットリオ・セルラはヒマラヤの山岳を撮影して、不世出の山岳写真家とうたわれ、数々の名作を残した。本格的なヒマラヤの写真を初めて世に出したのは、このセルラであった。
ネパールを踏査した人にスイス人トニー・ハーゲンがいる。彼は徹底的な踏査と調査で「ネパール」という素晴らしい書物を残したが、最後は不名誉な容疑で追放された。ネパールにいるスイス人のすべてを疑惑視する人さえいる。いずれにしても彼はネパール以外は全く知らない。日本でヒマラヤという書名の写真集を出版した山岳写真家がいたが、これはヒマラヤ7か国の中のたった1つ、ネパールのそのまた一部分を撮影して「ヒマラヤ」を作ったが、こんなのは論外である。
とにかく、ヒマラヤを同一人物が広範囲に取材することは、容易な業ではない。交通機関がたった2本の自分の脚だけなので時間のかかることおびただしい。しかし真実を伝えるには同一の眼がとらえたものでなくてはならない。
東西に長いヒマラヤでは、東と西の気候がまるで異なる。東部は乾期と雨期がはっきり分れているが、西部はモンスーンの影響も殆んどなく、いわば砂漠の中に生えた高山である。景観も当然異なる。同一人間による取材と撮影を説く理由がここにある。ネパールの山を知っているからこそ、パキスタンの砂漠の山岳の本当の姿が認識出来るのである。ネパールの山にはその山の特徴があり、パキスタンやアフガニスタンには、やはりそこにしかない山のおもむきがある。同じネパールでもエベレスト周辺とアンナプレナ山群では、すでに様子が違う。したがって複数の人間が別々の地域に分散して写真撮影すると、出来上がる写真はみな同じである。それは、各々に山岳の違いが彼等に認識されないからである。
ヒマラヤの写真を広範囲に収録したものに、深田久弥著「ヒマラヤの高峰」別冊写真集がある。これは数十人から写真を寄せ集め編集したもので、ヒマラヤを知る上で貴重な参考書である。当然の結果であるが、やはり同一の眼がねらったものでないために写真はどれもこれもみな同じであり、これでは真実の姿は伝えられない。
砂漠を旅した経験のある人間とない人間が紺碧の南太平洋を見た時、また、その海を見た人間と見ていない人間が、氷のヒマラヤを眼前にした時、その印象が異なるのは当然である。要するに山は山でも、ただの山でないことがどの程度認識されるかにかかっている。さらに、本質を洞察してこそ初めて真実が伝えられるという点である。その本質と真実を見極める眼、それは芸術家の魂である。
作品集『ヒマラヤ』を出版する第二の理由は、この美しいヒマラヤをあらゆる人に見ていただき、あらゆる人々にこの素晴らしい地球の様を認識していただきたいと願ったからである。アルプスの撮影から帰国して、作品集『アルプス』は出版社に任せ、取るものもとりあえずヒマラヤに飛んだのは、1日も早くこの『ヒマラヤ』を完成して、1日も早くこの美しい自然を人々に紹介したかったからにほかならない。
人類の英知は月に人間を送り込んだ。しかしその科学技術は同時に核兵器を作り、各種の公害は人類の存在を根底からおびやかすに至った。第二のアウシュビッツである。公害を含む自然破壊は、地球上の自然の循環系の調和を混乱させ、ポーランドの片田舎のアウシュビッツが今や地球そのものになりつつあることを特に認識しなくてはならない。地球は30億の人間を乗せた、ただの惑星である。酸素も水も自給自足しなくてはならない地球という名の1個の宇宙船である。その宇宙船を自から破壊して、いったいどうしようというのか。
この宇宙には、望遠鏡を使うと20等星までで約10億個の星が眺められる。銀河系には約1,000億個の恒星があり、この銀河系がそれぞれ独立した1個の島宇宙を作り、その島宇宙がこれまた1,000億個も集まっているのだそうである。しかし今我々に判っていることは、要するに人類は、この無数にある星と無限の宇宙の中にあって、素手で生存出来るのはこの地球以外にはないという事実である。
例年、日本列島を襲う颱風の数がここ数年間急に少なくなって、気象学者を無気味がらせている。1967年に38個、68年29個、69年19個、70年には17個と以前の平均の1/3に減少している。原因は専門家の研究に待つとして、やはりただ事ではないような気がするのである。大都市だけでなく、車など全く走っていないグリーンランドの雪でさえ、自然状態の500倍近い鉛を含んでいることが確認された。ヒマラヤの8,000m級の高山に立つと、酸素の量は普通の地上に比べ1/3に減少する。地球上といっても、酸素を自由に呼吸出来る生命の空間は、せいぜい地上10,000mまでであることを人々は本当に知っているのであろうか。
群馬県安中市の亜鉛工場の女子従業員が自殺した。解剖の結果、遺体の内臓から22,400PPMという異状に高いカドミウムを検出した。少々オーバーに表現するなら、人間の体が鉱石にされてしまったのである。
一方、アメリカはベトナムに勝手に軍隊を侵入させた。国内世論の激しい突き上げに合って撤兵のきざしを見せはじめたことは歓迎すべきだが、いまだに共産軍(我々にいわせるなら民族軍)が攻撃すると、報復と称して独立国である北ベトナムを爆撃する。この我々には理解出来ない論理は、いったいどうなっているのであろうか。
公害も自然破壊もベトナム戦争も、どれもこれも要するに人間の良識の欠如がなさしめる業である。人間性の回復、人間の良識の回復を、今こそ声を大に叫ばなくてはならない。
人類が宇宙的視野に立って地球を見ることが出来るかどうかに全てがかかっている。ある宇宙飛行士は、"水も空気もある、この豊かな緑がいっぱいの地球を汚す者は犯罪者だ"といった。彼は地球を離れて初めて地球の素晴らしさと有難さを知ったのである。
月に出掛けた宇宙飛行士は、月からの帰途いつもひとこと哲学的な言葉を吐いた。アポロ8号"地球は荒涼とした宇宙に浮かぶオアシス"。11号"神が造りたもうた宇宙を思う時、人間とは何かと私は考えてしまう"。そして遂に今回シェパード船長が戦争について語った。帰還飛行中、アポロ14号から地上に語りかけた言葉、"こうして美しく輝く三日月形の地球を宇宙から見ていると、あそこでまだ戦争が続いているのかと残念に思う。友人、親類はまだベトナムから戻らない。戦死したり、捕虜になったり……"。
私は先日シッキムに入国して、これで130か国を撮影取材した。それらの作品は、「世界の文化地理23巻」や、「世界文化シリーズ26巻」などで内外に紹介した。未だ大気圏外に出たことはないが、この地球の素晴らしさについて、人並み以上に理解しているつもりである。この地球とは何かを人類が本当に認識した時、戦争も公害もこの地上からなくなると信じて疑わない。「ヒマラヤ」が、このためのひとつの資料として些少なりとも役に立つなら嬉しいことである。
この作品集に特別寄稿を下さった、世界的な文化人 アーノルド・トインビー博士からも次のような書簡をいただいた。
……世界中の景勝の地をカメラに収める事によって、あなたは世の中に対して非常な貢献をされていると考えます。人類がいま行なっております自然界の破壊を、取り返しのつかない段階まで推し進めるようなことが、不幸にも起こりました場合、その時にこそあなたの作品は、いまだ侵されず清浄な自然の状態を留める貴重な記録となることでありましょう。そして、あなたの作品が、人類にこの不幸な歩みを踏みとどまらせるものとなれば、と心から念じてやみません。
博士が私の仕事を高く評価されたことで、私は力強い確信を得た。「アルプス」「ヒマラヤ」「アメリカ」「アンデス・パタゴニア」「フィヨルド」「世界の百名山」「日本アルプス」はもう10年前に計画した私のライフワークである。「アメリカ」はすでに撮影を開始した。地球を再発見しようというその撮影意図は変らない。
この世に人間として生をうけ、神が私に写真家としての幾ばくかの才能を与えたとしたら、いったい私はこの世で何を成すべきか、写真家にいったい何が出来るかという自問もある。それなら政治家にいったい何が出来たか? 大学教授が最少限の自己の責任さえまっとうしないために、大学暴動が起こったではないか。科学者は何を成したか? それは先に書いた通りである。宇宙開発、医学面での顕著な進歩……人類の未来に貢献するであろう実績の幾つかは評価されるとして、その成果が一方で、地球をアウシュビッツにして何になろう。
私はただ謙虚に真筆に私の信念を貫きたい。この素晴らしい地球を紹介することで、人々が地球を再発見してくれるならば、道は開けると信じている。そしてそれは、神の摂哩であると信じている。私はこの神の御心に生涯の全てをかける。
(1971年3月10日 白川義員)
本書の序文
白川義員作品集「ヒマラヤ」のためのネパール国王の序文
延々1,500マイルに連なる高峰ヒマラヤ大山系。この無比の美しさを世人に知悉せしめようという白川氏の企てを賞賛いたします。
ヒマラヤ山脈は、さまざまな視点において多くの重要性をもっております。地上最高峰を極めんとする探検家たちを強くひきつける自然の中核的存在であり、高山動植物の偉大な宝庫であり、孤独を好み孤独を探る聖者や賢人にとっても、もっとも適切なところであります。また、この数多くの高峰は、大地の創造主への祈りと礼拝の象徴として聳え立つものと考えてよく、あるいはまた、創られたものが地上の意識を抜きん出て高く聳えるべきであるという久遠の象徴とみなしてよいものであります。
これら山脈から流れ出る水は、往古からこの国土全域を清めてきました。実にヒマラヤこそ、その影の下に生を営む生きとし生けるものにとり、まことに口舌に尽しがたい地位を占めるものであります。かつて、ゴーダマの仏陀は、智恵の光で世界中を照らされました。『ヴューダ』、『プラーナ聖詩書』、そして『マハバラタ』を含む『ウパニシャッド』─これら聖なる書物の悉くは、すべてヒマラヤを最高に評価し、この山脈の重要性を証明する描写に満ちみちております。
これは豊かな写真集です。言語、習慣、風俗、人類学上の相違による諸困難を写真というメディアによって克服し、ヒマラヤ山脈の壮麗と偉大さ、そしてこの地方の住民の考え方をよく表現しております。一般世人の蒙をひらくに、この書物が大いた貢献することを信じます。著者の努力を衷心より感謝いたします。
(1970年7月27日)