日本版
アメリカ版
本書概要
- 撮影
- 1971~1973年
- 出版
- 日本版 アメリカ大陸 1975年(定価32,000円)講談社
- 米国版 ETERNAL AMERICA(永遠のアメリカ)1975年 HARPER&ROW社
※アメリカの国立公園、国定公園、州立公園、国立リクリエーション・エリア41カ所を航空撮影600時間を含めて"地球再発見による人間性回復へ"の理念のもと体系的系統的に撮った初めての写真集。アメリカ建国200年を記念した仕事でアメリカ政府内務省、商務省の全面支援を受けて撮影した。
収録作品
朝焼けのモニュメント・ヴァレ
ノース・ウィンドゥと
タリット・アーチ
デス・ヴァレ
サガロの原生林
キャリブー
本書のあとがき
過去16年間に、私は世界130ヵ国を旅した。そしてその間、地球上のいわゆる景勝の地は残らず自分の目でながめたつもりである。旅の目的が撮影であったから、地上からのアングルだけでなく、小型機をチャーターして上空からも景観をつぶさに確かめた。しかしなんといっても最大の収穫は、これらの取材をとおして自然を見る目がしだいに成長したことであり、それは、散在する景勝という部分的な視点から、地球全体を関連した一つの自然として見る巨視的な立場でものを考えるようになったことである。
今回の「アメリカ大陸」の撮影だけで、ジェット機を含めて約200回飛行機を飛ばしており、過去16年間のトータルでは、小型機による航空撮影は、おそらく数千回にも及ぶはずである。
(中略)
大自然の“神秘”とか“驚異”という言葉は簡単にだれもが使う。しかし、その実態をほんとうに認識している人間はいったい何人いるであろうか。私は、幸いにして、この地球が秘めている荘厳にして鮮烈、華麗な姿に接しえた、数少ない人間の中の一人であると思っている。私はアルプスやヒマラヤその他で得たこの深い感動と貴重な体験を、私のカメラを通してあらゆる人々に伝えたい。そして、すべての人々が、この美しいたった一つしかない地球をあらためて認識することによって、人間の良識や人間性の回復になんらかの道を見いだしえはしないであろうか、というのが私の念願である。
作品集「ヒマラヤ」にも書いたが、人間の良識や人間性の回復がこれほど切実に叫ばれる時代は、人類の歴史上かつてなかった。人類の英知は、今や月をも人間の行動圏とした。しかしその同じ科学技術は、同時に核兵器を作り、各種の公害は人類の存在を根底からおびやかすにいたっている。自然破壊も公害も、はたまた人間の罪悪の最たる戦争も、つまるところ、人間性の喪失と良識の欠如がなさしめる業以外のなにものでもない。「アメリカ大陸」は、その私の願いをこめて作った「アルプス」「ヒマラヤ」に続く、地球再発見シリーズの第3冊目なのである。
アメリカという国が持つ体質について私が批判的であることは、すでに撮影記にも書いた。大統領や平和運動家を暗殺してはばからないアメリカの社会や国民性は、病気でいうならば今や重態である。しかし、今回の私は、それらの社会や体質を越えて、現実に存在するアメリカ大陸が、地球に残された唯一の"自然"であるという観点に立ってこの作品集を制作した。
私はアメリカの社会や国家としての体質については容赦なく批判するが、一方アメリカが、自国の自然を後世に残すべく傾注している、計画的、組織的かつ積極的な努力と、その実績については高く評価しているし、率直に賞賛をおしまない。1971年と1973年の2度、延べ15ヵ月間アメリカの国立、国定両公園その他を取材する中でその実態にも触れ、彼らの努力に深い感銘を受けた。正規のレンジャーが7000人、夏期は事務職も投入して約4万人のレンジャーが、観光客や災害から自然を守っている。ちなみに日本の場合を見ると、国立公園管理員48人、事務所員23人の計71人。しかもこれは定員であって、通常は定員に満たない状態で76ヵ所の国立、国定両公園の自然を守っているという。公園の数にも満たない人数で、いったいどうやって自然が守れるのであろうか。そんなことは物理的に不可能である。公園の規模の違いはあるにしても、アメリカと日本の価値観の相違がこの数字にはっきり表れている。
この「アメリカ大陸」には、人間や人工物のたぐいはいっさい画面に入れなかった。あくまでも太古のままの偉大な自然だけで貫き、野生動物のページを若干加えた。それにしても、長期にわたるキャンプ生活や、毎日自然と対時する取材活動の中で、大自然と人間についていろいろと考えさせられた。
グランド・キャニオンのサウス・リムから大峡谷を撮影しながら、コロラド川が、100万年にわたって、このカイバブ・プラトーを侵食し続けていることを思った。地上最大の砂丘であるコロラド州のグレート・サンド・デューンに砂が積もり始めたのも、100万年前である。そして人類がこの世に生を受けたのもこれまた100万年前であった。この地球という名の惑星に、我我の祖先が猿人として姿を現したころの地上の光景は、どのようなものであったろうと思った。それから100万年の間、自然と人類は切り離せない深い重要なかかわりのもとに、人間として精神的成長をとげたのである。古来、偉大な哲学者や科学者は、人類が人間として偉大な精神的発展をとげたのは、宇宙の秩序と統一とに対する根本直観にもとづく畏敬の感情からであるとしている。宇宙の背後にある精神的な存在とのかかわりあいと、それに対する畏敬の感情がなかったら、人間は今日のような人間にならなかったであろうし、もし人間が単なる物質的存在にしか過ぎないならば、人間の尊厳や人権は根拠を失ってしまうことになるのである。
私は目の前にある風景をただ物質的な物としてとらえるのではなく、グランド・キャニオンを撮りながらその峡谷の底にあるものを、グレーシャー・ベイのフィヨルドの奥にあるものを、マッキンレーの山のかなたにあるなにかを、風景の表面には表れないが自然と人間との間に重要にかかわりあうなにかを、つねに画面に感じさせたいと願った。それは、大自然の背後にあるなにかに対する、私の畏敬の念と祈りであった。
アメリカの自然は広大で野性的である。アラスカの原野をもちだすまでもなく、ネバダやアリゾナの砂漠をつぶすことも絶望的であろう。人間と大地との関係でいうならば、アメリカの自然はヒマラヤに似ている。しかし、日本の自然は繊細であった。そこに独特の美しさがあった。だが、人間と大地との関係でいうならば、破壊など簡単にできる箱庭的自然であった。人々の心の奥に浄土心象風景としてとらえられていたこの自然を、たたきつぶし略奪することに、日本人は快感を覚えたのである。欲求不満のエネルギーをも注ぎ込んで、自然破壊に猛進した。まさしく今日の世相にみる、神を忘れた精神の荒廃以外のなにものでもない。前後のみさかいもなく付和雷同するのが、哲学のない日本人の悲しい国民性だが、これほど急速に自国の環境を破壊した国家は、人類の歴史上日本以外になかろう。産業革命が起こったイギリスでさえ、自然には全く手をつけなかった。
ものをたたきつぶすことは簡単である。だれにでもできる。しかし、ものを作りだすことは容易ではない。膨大なエネルギーと努力を必要とする。日本列島をぶち壊して思い上がっている我々には、木の葉一枚作れないことを肝に銘じるべきであろう。
45億年昔、この地球が誕生した時、表面は火山ガスに包まれていた。その火山ガスが酸素となり空気や水を作った過程には、なんらかの形で植物が地表に現れていたとするのが最近の地球物理学者の学説である。我々が片端から引き抜いて埋めていった樹木は、すべて我々の生命の源泉であることを知っているのか、また、埋立地の道路の中央分離帯に人造の草木が植えられているが、ビニールやプラスチックでも緑は緑という、近ごろの日本人の感覚に、私は一種の恐怖を感じるのである。昨年であったか、国立がんセンターの平山疫学部長が、先天異常の死産児が最近急激にふえ、その発生率は20年前の12倍、1985年には自然死産で46倍、人工死産では95倍に激増するという発表をした。今、我々はなに不自由なく太平を謳歌している。しかしいつかある日から、突如として、生まれる子供は異常児と死児だけという、考えただけでもぞっとする事態に向かって、確実に進行しているこの事実を、日本人は知っているのであろうか。今こそ、価値観と発想を転換しないかぎり、少なくとも日本国は滅亡の一途をたどるであろう。
我々日本人が、現実の問題として、この四つの島から全員逃げ出し、安住の地を得ることは不可能である。ならば、今こそ我々ひとりひとりが、自分の手で、自分の周囲を、自分の町を、自分の国をよくしていくより他に方法がないのだ。自分のエゴのためにでなく、みんなのために自分になにができるかを考え、自分の手で実行するより他に道はない。そしてひとりひとりが自分に責任を持つことが、民主主義の原則なのである。
「地球再発見による人間性の回復へ」これは私の終生の大テーマである。「アルプス」「ヒマラヤ」「アメリカ大陸」「南極大陸」「アンデス・パタゴニア」「フィヨルド」「せ界の百名山」「日本アルプス」などは、もう14年前に計画した私のライフ・ワークである。正直いってどこまでいけるかわからない。ヒマラヤでもアルプスでも、何度か半分死んでいることを考えると、どこまでやれるものか見当もつかないが、生きている限り、やれるところまでやってみたい。ただ真撃に着実に前進したい。我々が生きているこの地球が秘める偉大なる事実を、私の感動をこめてこれからも紹介したいと思っている。そして、私の写真が、このたった一つしかない地球について、人々があらためて見直し、考え直す契機になればと願ってやまない。
(1975年1月10日 白川義員)