聖書の世界

撮影3年、撮影許可に4年。7年かけて成功した聖書に記述された現場での撮影

  • 表紙
    日本版 
    新約聖書の世界

  • 表紙
    日本版 
    旧約聖書の世界

  • 表紙
    日本版 
    新約聖書の世界
    (愛蔵版)

  • 表紙
    日本版 
    旧約聖書の世界
    (愛蔵版)

  • 表紙
    日本版 
    キリストの生涯

  • 表紙
    日本版 
    キリストの生涯
    (愛蔵版)

  • 表紙
    日本版 
    新潮社版
    聖書の世界

  • 表紙
    日本版 
    新潮社版
    聖書の世界(改訂版)

  • 表紙
    イタリア版

  • 表紙
    フランス版

  • 表紙
    スペイン版

  • 表紙
    ポーランド版

本書概要

撮影
1977~1979年
出版
日本版 新約聖書の世界 1979年(定価28,000円)小学館
日本版 新約聖書の世界(愛蔵版)1983年(定価7,500円)小学館
日本版 キリストの生涯 1980年(定価12,000円)教文館
日本版 キリストの生涯(愛蔵版)1984年(定価8,000円)教文館
日本版 旧約聖書の世界 1980年(定価28,000円)小学館
日本版 旧約聖書の世界(愛蔵版)1983年(定価7,500円)小学館
日本版 聖書の世界 1984年(定価1,100円)新潮社
日本版 聖書の世界(改訂版)2003年(定価1,400円)新潮社
(1984年版は21版まで版を重ねたため、2003年に新版を制作発行した)
イタリア版 I LUOGHI DELLA FEDE 1992年 MONDADORI社
フランス版 LESHAUTS LIEUX DELA BIBLE 1992年 SOLAR社
スペイン版 LUGARES DE LA BIBLIA 1992年 ANAYA社
ポーランド版 MIEJSCA BIBLIJNE 1993年 SPLIT TRADING社

■聖書写真集はこれまで全世界で無数といっていいほど出版されたが、その全てがごまかしの写真集であった。たとえば旧約聖書の冒頭創生記の舞台メソポタミアは大河と大河の間を意味し、それはチグリスとユーフラテスの間であることは、今日聖書学的には常識である。これまでの聖書写真集では、このメソポタミアをイスラエルのガリラヤ湖の周辺やその北方で撮影されている。イラクはかつて撮影目的の人間にはビザを発給しなかった。しかし白川は外務省の全面支援を受けて初めてビザを取得し、イラン、イラク戦争直前にメソポタミア全域の徹底的撮影に成功。その後この地は戦争続きで誰も現地に入れない。また、聖書の重要な舞台は地政学的に今日も重要で、軍事基地になっている場所が多い。これらの軍事基地に入る許可、加えて基地内で撮影する許可はこれまで不可能とされてきたが、白川は人脈をフル廻転させ4年間を要して総て許可を取得し、初めて例外なく聖書に記述されたその現場で撮影することに成功した。撮影期間は3年だが許可取得の時間を加えればこの仕事にかけた時間は7年間になる。これもまた不可能を可能にした前人未到の仕事であったからこそ、全米写真家協会から写真史上10人目の最高写真家賞を贈られたのである。

※1979年10月20日『新約聖書の世界』初版4,000部が発売されたが、たった1日、24時間で完売になった。一冊数万円の本がたった一日で売り切れた例は日本にはない。恐らく世界にも前例がないのではないか。

※1979年10月19日から31日まで東京新宿小田急百貨店で『白川義員写真展・聖書の世界』が開催された。しかし作品が見えないほど、連日超満足になったため、同展が国内10ヶ所を巡回した後、1980年12月12日から21日までアンコール展と銘打って再び同会場で展覧した。有料の同一展を同じ会場で二回展覧するのはすべての美術展を通じて日本では例がない。

▲とじる

収録作品

新約聖書の世界
  • 内容写真01
    ベツレヘム

  • 内容写真02
    ヘロデオン

  • 内容写真03
    エルサレム

  • 内容写真04
    オリブ山と昇天の塔

  • 内容写真05
    マサダ

旧約聖書の世界
  • 内容写真01
    クルナ

  • 内容写真02
    アララテ山

  • 内容写真03
    ソドム

  • 内容写真04
    アブ・シンベル

  • 内容写真05
    カタリナ山頂からの
    ジェベル・ムーサ

▲とじる

本書のあとがき

新約聖書

1971年、わたしは作品集『ヒマラヤ』と『神々の座』を上梓したのだが、その直後から“君はクリスチャンだったのか”と友人知人から奇異な目で話しかけられるようになった。その理由は、作品集の<あとがき>に───しかし助手やシェルパや現地の人夫も含めて、我々の隊から1人の犠牲者を出すこともなく、1件の事故もなく、これほど広範囲の撮影を全うすることが出来たのは、ひとえに神の御加護のたまものである───と書いたためであることが、あとでわかった。しかしわたしはクリスチャンではない。だが、神の存在は信じている。事実ヒマラヤ山中でのあるとき、わたしは全身で神を知覚した経験がある。

ヒマラヤ撮影は1967年から70年まで4年間かけた。当時ヒマラヤ7か国をめぐる国際情勢は険悪で、登山許可はまだしも、撮影許可の取得は至難の業であった。撮影はまず高度との闘いから始まった。国内のめぼしい山はほとんど登っていたが、4,000メートルを越える山中での行動の経験はない。当然のように高山病で倒れ、高度を下げるまでの数日間まったく意識不明に陥ったこともある。また、神経性の下痢が6か月間もつづくなど、とにかくこの4年間で体重の約1/3、20キロもやせてしまった。

1970年2月、ヒマラヤ撮影はいよいよ大詰めを迎えて、我々はネパール側からシッキム・ヒマラヤを撮影していた。シッキム・ヒマラヤとは、ネパールとシッキムの国境線上に立ちはだかる一大山脈で、世界第3の高峰カンチェンジュンガ(8,598m)を盟主に7,000メートル峰が13座連なり、難攻不落とうたわれた名峰ジャヌーなどがあって、ヒマラヤ撮影ではもっとも重要な地域のひとつであった。この山域は軍事上の理由で1963年以降、登山隊の入山は全面禁止となり、我々だけが特別に許可されての入山だった。そのためであろうか、山にはいるまでの道は荒れ果てていた。そして同山域での2か月におよぶ撮影も終わり、あと2日で人間が住むグンサ部落にたどりつけるというとき突如、豪雪に襲われた。

ヒマラヤの冬は乾期である。過去3年間のヒマラヤ撮影の経験からは、これほどの豪雪に見舞われたのはまったくの予想外であった。ただ乾期なので1日か2日もすれば再び快晴になるはずであった。ところが3日日になっても降雪が衰える気配はなく、急遽、食糧計画をねり直したのだが、あと2日で部落に出られる予定だったから、手持ちの量は少ない。4日間でついに底をつき、あとは雪を溶かしたお湯の砂糖水だけとなった。一方、雪が小降りになる毎早朝、助手2人とシェルパが頭の上まで積もる雪をかき分けて、ほぼ500メートル先の崖の端まで豪雪をラッセルし、そこから先に2~3キロつづく絶壁の偵察に出るのである。この2~3キロの壁を横切らないかぎり脱出はできない。そしてこの壁が最悪の難所なのである。

食糧がなくなってから4日目の朝、座して餓死を待つよりはと脱出決行に踏み切った。これ以上待機して体が衰弱しては、いざというときどうにもならないとの判断だった。場所はヒマラヤである。救援などあり得ない。かりに救援があったとしても、豪雪で下りられないでいるのに、登ってこられるはずがない。その時点での食糧は1握りの焼き米にバターピーナッツ5個、乾ぶどう10個の非常食2食分だけだった。壁の全貌が見える崖の上に全員が集合した。その壁には、高さ7,200メートルのシャルプーの中腹から間断なく雪崩が落ちている。ここまでのラッセルで、全員すでに相当に体力を消耗していた。

ヒマラヤの雪崩というのは凄い。何トンもあろうかという氷の塊りが何百個も、ときには根こそぎの岩もろとも落ちてくる。ポーターを3班に分け、登山家としても一流であった助手2人は、先行2班にシェルパとともに1名ずつ配して、30分おきにスタートさせた。これなら、どれかがやられても全滅は免れる。わたしは雪の上に座して神に祈った。わたし自身はアルプスでも幾度か半分死んでいる。わたしは死んでもかまわない。しかし若い助手やシェルパは助かってほしい。

第1のグループがもっとも危険な壁の中間で苦闘している。第2グループは先行グループの足跡を追うから、当然スピードが速い。ポーター数人がつぎつぎに転倒し、2人がスリップして落ちて行った。第2グループからも何人かが落ちた。下のグンサ川までの落差は500メートルはあろうか、私は目をつむった。つぎの瞬間、わたしの目にまさに奇跡としか考えられない光景が映った。滑落死したはずの彼らが立ち上がったのである。深い新雪に助けられたのだ。雪崩はこれも不思議に、移動する彼らの前後にばかり落ちる。

そのときである。周囲の風景が瞬時にして紫色に変わったのである。わたしの全身は電光にうたれたようにしびれあがった。わたしはよろよろと立ち上がるとピッケルを拾い上げ、ピッケルバンドをしっかりと右手に縛り、ゆっくりと壁を渡り始めた。相変らず前後に落ちる雪崩も、少しも恐ろしいとは思わなかった。それから2日2晩、豪雪の中をラッセルしながら歩き通しの脱出行となる。

壁を越えるとき活躍したシェルパが1人倒れて口からあわを吹き、うわ言をいい始めた。余力のあるポーターが彼をザイルで縛って雪上を引きずった。全員が疲労困ぱいなので、ここで眠ったら確実に疲労凍死である。大声で必死でどなりつけながら歩く。50歩くらい歩くたびに雪の中につんのめるのだが、わたしの頭上、はるかな天上には神がわたしを見守ってくれているという確信があった。

いま当時の出来事を思い出すとき、周囲が紫色に変わったのは、ちょうど稜線に出た日の出の太陽の赤い光が厚い雲を透して複雑に屈折したための乱反射であったのかとも思われる。いずれにせよ、あの脱出行には確かに神の導きがあったというわたしの確信は、いまでも変わることはない。そうでなければ、4日間も食事を抜いた20数名の集団が、あの危険な壁を無傷で渡り、さらに2日2晩のラッセルで脱出に成功できた理由を、合理的に説明できない。

クリスチャンでもないわたしが、本書を制作した第2の理由は、わたしは聖書が好きだからである。好きになったのである。だからどうしても写真にしたかった。「旧約」には少々血なま臭い記述もままあるが、読めば読むほどに味わいが深まり、面白い。モーセが数十万のイスラエルの民を引き連れて葦の海を渡り、シナイに脱走するエクソダスも劇的だが、もっと驚くのは生まれながらの奴隷である彼らに、神との約束の地カナン(パレスチナ)に進撃する能力なしとみたモーセが、不毛の砂漠であるシナイ半島のカデシュ・パルネアに38年間もとどまる。そして彼らが死に絶え、新しく生まれた2世の子供たちに軍事教練をして戦闘集団をつくり上げ、38年後に改めてカナンに向け北上するというその強靭な意志と、すさまじい執念に鬼気せまるものを感じないわけにはいかない。しかもこれが事実なのである。

話は前後するが、事実といえばノアの洪水もまた事実なのだ。1929年、イギリスの考古学者サー・レナード・ウーリーがシュメールのウルの地下40メートルの層で、6,000年昔の洪水の跡を発見したのは有名な事実である。

「旧約」については来年に刊行予定の『旧約聖書の世界』にゆずるとして、「新約」はどうか。イエスはひとまずおき、パウロの生涯もまた劇的で、圧倒的な感動を覚えるのである。キリスト教徒迫害の急先鋒だったパウロ(サウロ)がダマスコ郊外で復活したイエスに出会い、180度の回心をする。我々キリスト教徒でない人間には、アレオパゴスのギリシア人同様、復活を信じることは困難である。しかしそれが事実でなかったとしたら、その後のパウロの死をも恐れぬ不退転の意志、超人的な伝道活動は説明つかなくなる。あれほど臆病だったペテロなどイエスの弟子も、突然変身して堂々とイエスを語り、ことごとく殉教する。とにかく、わたしは聖書以外でこれほど深い感動の書物を他に知らない。

第3の理由、それは"地球再発見による人間性回復へ"という、わたしのライフワークのテーマとの関連である。『アルプス』も『ヒマラヤ』や『アメリカ大陸』も総てこのテーマのもとに制作した。『聖書の世界』はこれら地球再発見シリーズとはいささか趣を異にするが、人間の良識と人間性の回復について、何らかの道を見出したいと希求するわたしの終生の願いと、一環するものであることに変わりはない。『アメリカ大陸』の<あとがき>にも書いたが、人間性の回復がいまほど切実に叫ばれる時代が、人類の歴史上かつてあったろうか。それは、聖なるものを失ったところに総ての根源があるように思えてならない。このわたしの拙い仕事によって、精神の荒廃を指摘されて久しい現代に、神を想う人が1人でもふえてくれるならば、わたしの努力は無意味ではなかったと思うのである。

(1979年8月)

旧約聖書の世界

聖書を映像化した目的とその理由については、昨秋出版した『新約聖書の世界』のあとがきで、3点を上げて明らかにした。第1に私は神の存在を確信していること。第2に好きな聖書をどうしても写真にしたかったこと。第3にこの仕事が、私のライフワークである"地球再発見による人間性回復へ"の一環であり、その延長線上にあることを記した。

ここでは、第3の理由を、これまでの仕事をふり返りながら、もう少しくわしく書いてみたい。それが、とりも直さず聖書映像化への私の心の道程であり、私の仕事の根底をなす思想であり、今日私の生き方そのものを左右する根源的要素となったものだからである。

1962年秋の早朝、私はスイスのツェルマットからゴルナーグラートに登る登山鉄道の途中にある、リッフェル湖のほとりに立っていた。リッフェル・アルプのアローラ松は今をさかりと紅葉しており、周囲の山々の頂はすでに新雪におおわれていた。まだ薄暗いマッターホーンが、鏡のような湖に逆三角形に写っている。突然マッターホーンの頂上が、赤紫色の灯がともったように光った。それは東の地平線に日の出の太陽が今閃光を放ったのである。と見る間に、頂上から東壁の新雪を光が駆け下るように広がりながら、強烈な赤色に変わってゆく。山の上の天空が黄金色に染まった。まったく音のない真空の世界で、色彩だけが踊るように変化する。

私は写真を撮ることも忘れて眺めた。まさに彼岸の世界を見ているように思った。少なくともこの地上で現実に起こっている風景とは、どうしても考えられなかった。

ヨーロッパ・アルプスにはそれから6年間こもったが、メンヒやウェッターホーンの頂上から見る日の出も、この世のものとは思えなかったし、モンブラン山群の日没やその後の月夜の風景も気が遠くなるほど美しく、毎日が感動の渦の中にひたっていた。われわれ人間が住んでいるこの地球がこれほどまでに鮮烈で荘厳な美しさであることに、私は心底感動したのである。

同時に地球が、これほどまでに物凄く神秘で美しい事実を知っている人間が、いったい何人いるであろうかと思った。あまりに凄絶な美の中にひたっているために、都会のビルの谷間に住んで神々しい日の出の景観も神秘な日渡の風景も見る機会のない人々に、私のこの感動をそのままに伝えることができたら、どんなにすばらしいことかと考えるようになったのである。

1967年、前年から準備していたヒマラヤの撮影を開始した。ヒマラヤは東西3000キロ、7ヵ国にまたがる一大山岳地帯である。8000メートル峰が14座、7000メートル級三百数十座、地球上でヒマラヤ以外に7000メートル級の山は1峰も存在しない。6000メートル級にいたっては無数にあって、正確な数を数えるのは不可能といわれる、人間世界から隔絶された大山脈である。この山中を4年間旅した。そうして、人間のはかなさをつくづくと身にしみて思い知らされたのである。人間とは何と微細な存在であることか、地上をはう蟻よりも小さい。踏みつけられれば消えてしまう存在でしかない。

そのうえ、高山に馴れないため酸素不足による高山病で倒れて、数日間意識不明になったことがあった。好天の続いている間に、クンブ氷河をさかのぼらなければ1度降雪が来たらこの数十人の小撮影隊のパーティーではラッセルは不可能、というシェルパの意見を入れて登高したが、やはり気絶し倒れた。

ザイルでぐるぐる巻きにされてシェルパに背負われて登った。私が死んでもこのからだをエベレストが正面に見えるカラパッタールまでは必ず引きずり上げよという私の厳命を、彼らは忠実に守ったのである。数日後、鋭い石の上に体が落ちてあまりの痛さに一瞬意識がもどったとき、目の前に私のイメージと寸分違わぬ真っ赤なエベレストが広がっていた。"この写真だ"と、よろよろ立ち上がったまでは記憶にあるが、その先はまったく意識のないまま、シャッターを切ったようであった。それが不思議にも、写っていたのである。しかしこの時も帰りは半分死んでいた。高山病に肺炎を併発すると、48時間以内に確実に死ぬのである。

パキスタンのナンガパルバットでは神経性下痢が止まらず20キロやせて、はって登った。急激に20キロやせると目まいがひどくて、ほとんど立っていられなくなる。

シッキム・ヒラマヤでは季節はずれの豪雪に閉じ込められて食糧が切れ、4日目に頭までつかる豪雪の中を2日2晩歩き通しの脱出行をした。このことは『新約聖書の世界』のあとがきに書いたが、このときも今度こそ死ぬだろうと思った。今度こそ死ぬだろうと死を覚悟したことは2度や3度ではない。このヒマラヤで私は神の存在を信じたのである。

1971年から作品集『アメリカ大陸』の撮影を始めた。アルプスとヒマラヤの旅で、私はすでに山を石や岩が堆積したただの物質的存在として見ることができなくなっていた。その山の背後にある、何か偉大な精神的存在を信じていたのである。アメリカは砂漠や峡谷や平原がある。山とは違った多彩な相貌を持っている。この相貌の中に原初の風景を写真にしたかった。

原初の風景でなければならなかった理由、それはわれわれの祖先が猿人としてこの地球という名の惑星に生を受けたとき、彼らはいったいいかなる光景を見たであろうか。彼らは山や砂漠や峡谷や平原を、ただの物質的存在としてのみ見たのではない。彼らほそこに、またその背後に、偉大な精神の存在を確かに見たはずである。そしてその自然と精神の存在に、畏敬の念を持ったのである。人間が猿ではなくて、人間として偉大な精神的発展をとげた唯一絶対の理由がここにあると思う。

ところが今日、果てしない人間の欲望の拡大再生産が、自然をただ単なる物質として掠奪し、ブルドーザーを持っていってかき回せばカネになるという、自然を経済的な価値としてしか見られなくなったところに人間の悲劇があるのだ。精神の荒廃と、哲学することを止めた諸悪の根源がここにある。

原初の風景を感動的に紹介しようとする私の企ては、180万年昔、われわれの祖先が原初の風景に感じた畏敬の念と敬虔の感情を、もう一度呼び起こし人間たるゆえんである人間性を復興する何らかの端緒の1つになってほしいと願った私のはかない努力であった。

今日の人間にそのような感情は消失したというかも知れない。しかし人間である限り、心の深層にそれは必ず存在するのである。でなければ、もしかりに人間がただ単なる物質的存在に過ぎないならば、人間の尊厳や人権という言葉は根底から意味を失うことになろう。

しかし、感動的な日の出の太陽も日没も見た経験のない人々に、この鮮烈荘厳な地球の美しさを、と訴えたところで、それは文字どおり私の独り言に過ぎないかも知れない。だから今度の仕事は"地球再発見による人間性回復へ"を"聖書による人間性回復へ"と置き換えたのである。地球上のキリスト教徒は9億7000万人である。日本国内に限ればキリスト教徒はわずか100万人であるが、しかし聖書は毎年100万部以上が購読されている。つまりキリスト教徒に数十倍する聖書愛読者がいるのである。

本書はその愛読者への私のメッセージである。反対にまた、本書の写真によって聖書に興味を持たれる人たちも現れるであろう。その人たちと共に、人間とは何か、人間が生きるとはどういうことかを聖書に照らして私自身改めて考えてみたいと思うのである。

『新約聖書の世界』『キリストの生涯』『旧約聖書の世界』と、聖書写真集全3巻はこれで完結した。好きな聖書を写真で表現してみたいという一念で、ただ一途に撮影した。精神世界を映像化することの困難さを知りながら無我夢中で中東に飛んだ。夢中で駆けずり回っている間に閉ざされていた扉が1つ1つ開いていった。必要とするものをすべて撮影することができたのは、まことに奇跡的であった。撮影が終わった今も、情勢険悪な中東でなぜあれほど広範囲に取材できたのか、何もかも撮影が許可されたのか不思議に思うのである。万感こめて神に感謝し、筆をおくことにしたい。

(1980年7月)

▲とじる

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PROFILE

1935年愛媛県生。
日本大学芸術学部写真学科卒、
ニッポン放送入社文芸部
プロデューサー、フジテレビを
経てフリー写真家。

WORKS