南極大陸

史上初の南極大陸一周成功。撮影に要した総飛行距離は約12万km

  • 上巻
    日本版上巻

  • 下巻
    日本版下巻

  • イタリア版
    イタリア版

本書概要

撮影
1991~1993年
出版
日本版 南極大陸上巻(超絶の天然)1994年7月(定価38,000円)小学館
日本版 南極大陸下巻(永遠の時空)1994年11月(定価38,000円)小学館
イタリア版 ANTARTIDE 1995年 FENICE 2000社

■写真を云々する前に白川と同行した助手2人、それにNHKカメラマン八城氏の計4名が歴史上初めて南極大陸一周に成功した。その間330日にわたって南極のほぼ全域を撮影したこの仕事も前人未到の仕事である。南極一周では7カ国(チリ、アルゼンチン、ドイツ、オーストラリア、ロシア、イタリア、フランス)の15基地で感動的な支援を受けた。特にドイツとオーストラリア基地では食料と燃料を無料で提供された。白川はこのご恩だけは生涯忘れないと常々いっている。撮影経費は2シーズン3年間で6億5千万円を要した。

▲とじる

収録作品

上巻
  • 内容写真01
    カルバハール暁光

  • 内容写真02
    南極半島の山々

  • 内容写真03
    キングジョージ島の氷河

  • 内容写真04
    南極半島の太陽

  • 内容写真05
    皇帝ペンギンの雛

下巻
  • 内容写真06
    アランビオの光跡

  • 内容写真07
    氷河夕照

  • 内容写真08
    バード氷河

  • 内容写真09
    南極点24時間

  • 内容写真10
    真昼の落日

▲とじる

本書のあとがき

南極大陸撮影の趣旨など

『南極大陸』は『アルプス』『ヒマラヤ』『アメリカ大陸』『聖書の世界』『中国大陸』『神々の原風景』『仏教伝来』に続く私の"地球再発見による人間性回復へ"シリーズの第8作として制作した。

“地球再発見”には複数の意味があり、まず第一に、我々が棲む地球がまさにかけがえのない奇跡の惑星であることを再発見、再認識しようということにある。

地球は悠久無限の宇宙にあって、ケシ粒のごとき存在でしかないが、このケシ粒以外に生存できる星はない。地球は人類を乗せて無限の宇宙に浮遊する1個の宇宙船であり、運命共同体であることを再発見、再認識すれば、おのずと人間、生きる方向も限られ、連帯感も生まれるであろう。

そして、このケシ粒がいかに鮮烈で荘厳で神秘な美しさに満ちていることか、私が体験したこの感動をあらゆる人々に紹介することによって、有限の運命共同体の将来を考えてみたいとするのが、32年前の作品集『アルプス』からスタートした私の“地球再発見”シリーズの第一の目的である。

第二に自然や風景は地理学上の対象ではなく、そこに棲む人間の歴史的な精神のパースペクティブ上にあるとするのが私の思想である。でなければ、祖国という概念は成立し得ない。その土地や風景と切るに切れない精神の交流が生じるから、故郷となり祖国となるのであって、随意に旅した他国の土地や風景に祖国を感じないのは、その風景との精神的つながりがないからである。この点からも、風景は人間にとってただの"物"でないことが理解できるのである。

300万年昔、我々の祖先である猿人がこの惑星に現れて、彼等は自然が演じる壮大なドラマ、つまり、太陽や月や星や、雲や霧や嵐や雷鳴や、その森羅万象に凄絶な感動と深遠な畏れを持ったに違いないであろう。そして、彼等は自然とその背後の宇宙に遍満する偉大な精神の存在を感得するに至ったのである。人間の力や思考など及びもつかないはるかに超えた偉大で巨大な精神の存在、一言でいうなら神、天といってもいい、偉大な霊性といってもいい、その存在に彼等は畏敬の念を抱き、敬虔の祈りを捧げたのである。つまり彼等に原始宗教が生じたが政に、彼等に偉大な精神革命が起こって、サルがヒトになったとするのが、私の基本思想である。

そして今日、核兵器にしてもバイオテクノロジーにしても、人間が作り出した文明に、人間みずからが支配されるやも知れぬ恐ろしい世の中になりつつある事実を誰しも否定できないであろう。だからこそ人間性の回復が、これほど切実に叫ばれる時代が人類の歴史上かつてなかったのである。今こそ精神革命を起こした“人間”の原点に回帰し、宗教的自制心を持たない限り、そう遠くない将来、人類という種は地球上から絶滅するであろうことを私は恐れている。だからこそ、この32年間私は終始一貫して原初の風景を撮り続け、宗教心と宗教的自制心を持つことの重要性を、写真集と写真展で人々に訴え続けているのである。

さて南極は今、地球上に清浄無垢で手つかずの大自然が残る唯一の大陸である。この南極の絶対の原初の風景と超絶の天然の姿を感動的にしかも総合的に立体的な映像に固定して全世界の人々に伝え、なおかつ、真実の姿を後世に遺す企ては、人類の将来にわたって共通の利益に合致する意義ある仕事と信じて、1973年に行動を開始したのである。しかもグリーンピースがかつて、基地の周辺はゴミの山であると全世界に向かって告発したように、清浄無垢な南極ほ今撮らねば手遅れになる。

しかしあの広大な大陸の全貌をあますところなく撮影するには、点在する各国観測基地の協力と支援が不可欠の条件となり、その許可取得に足かけ19年の歳月を要しただけでなく、マイナス数十℃の人跡未踏の極地の氷原に、これまた想像を絶する猛烈な雪嵐が間断なく数十日も続くなかで、イメージに合った撮影ポイントを探し求めて歩く旅は、正直苦難に満ちた祈りの旅であった。

また、海岸線から一歩内陸に入ると、見渡す限り360°の雪原と空であり、地平線が一本横に走るだけで全く形がない。形がなくては写真にならない。そこはまた1羽の小鳥も1匹の獣も生息し得ない、生あるものの進入を拒否する死の世界である。

太陽は24時間天空を回っていて全く色彩がない。写真にするには絶望的被写体で、苦悩の連続であった。

私は、私が持つ知力や能力や体力や努力や忍耐とその総ての限りを尽くして、とてつもない困難な被写体に岩にかじりつく思いで立ち向かったが、南極は私がごとき凡庸の近づきがたい偉大で巨大な存在であった。そして今回ほど、自分自身の非力を情なく感じたことはかつてなかった。

南極では、鮮烈に荘厳で神秘な神々の風景を撮りたいと心に念じて掃影をスタートした。人間に精神革命をもたらした原風景を、感動的な写真にしたい一念で最後まで貫いた。

私のこのつたない仕事が、宇宙とは何か、人間とは何かについて想いを深める端緒の一つになってほしいとの心からの願いを込めて撮った。この写真集を開いて下さる方々が、私の意図を感知して下さるならば、私が21年間、渾身の力をふりしぼって南極に懸けた努力は無駄ではなかったかもしれないと思うのである。

第2次撮影6か月間で我々のツインオッターが飛んだ時間は318時間54分、飛行距離が79725kmで地球2周分に近い。第1次の5か月間を加えると、航空機による移動だけで、約12万km、地球の赤道上の3周分にあたる距離を飛んで、南極大陸の相貌をつぶさに眺めてきた。これまで137か国の大自然を撮影した経験からしても、南極の自然は圧倒的に原初の風景を色濃く残した大陸であった。私の造語である“原初の風景”は原始の風景とは意味が違う。原初の風景とは、300万年昔、猿人が偉大な精神革命を起こして人間になった、その発端となった風景を指す。つまり精神革命を起こすに至った、宗教心と信仰心の拠り所、神というか天というか、偉大な精神の存在をかい間見せる風景を指すのである。例えば、人里から望見される白雪をまとった名山は、白山と呼ばれて信仰の対象となった。日本の白山はもとより、アルプスの最高峰モンブランもヒマラヤの8000m峰ダウラギリも、現地語で白山であり信仰の対象であった。

300万年昔、猿人の周囲には信仰の対象となるべき風景は数多く存在したに違いない。そして彼らはその偉大な精神の存在の前に、つまり神の前にやってはならぬことをしかとわきまえて、厳しい自己抑制のもとに偉大な精神革命を起こして人間になったのである。今日の社会に見る精神荒廃は、人間の自己抑制の弛緩にほかならず、人間が自己抑制を放棄すれば容易に猿に帰ることを証明している。そして人間が高度の科学技術を身につけたことが、反対に人類の絶滅に直結している事実を知るべきであろうと思う。

だから私はプロ写真家として独立してからこの32年間、終始一貫して原初の風景を撮り続け、人間とは何かを問い続け、人間の原点に回帰することの緊要を訴え続けてきた。

南極には南極半島以外に美しい風景は多くはないが、原初の風景は多く存在している。1992年12月初旬、カルバハール基地近くの氷河の末端に立っていた。烈風が吹き荒れ、目の前を高さ100mを超える無数の氷山が崩れ落ちながら、激流に流されて行くただごとでほない光景に目がくらんで、体が硬直したことを今でもはっきり憶えている。例えば、ベアードモア氷河の周辺もそうだ。高さ10数mの氷塊が折れ重なって、目の届くその先まで途方もなく広がっている。表面を削って平坦にするとか、流れを変えるとか、人間の意志に従わせるとかは不可能というより絶望的だ。しかもこの程度の氷河は、南極には数を数えることなど不可能なほど無数にある。

南極の大自然は、人間のカなど及びもつかず、人間の思考などはるかに超えて、絶対的実在として存在することを、知悉させずにはおかない迫力をもってせまってくる。

そしてこの辺りには1木1草ない。1匹の動物も1羽の鳥もいない。音のない世界に烈風だけが吹き荒れている。まさに地獄だ。4世紀の求法僧法顕は、タクラマカン砂漠の砂河で、「空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣なく、四顧茫々として之く所を測る莫く、唯、日を視て以て東西に准え、人骨を望んで行路を標するのみ」と記したが、ここには人骨も鳥獣の骨も何もない。あるのはただ雪と青氷と、肌に突き刺さってくる凍った風だけである。明らかに生あるものの侵入を一切拒否する死の世界である。このような世界に身を置けば誰しも否応なく、人間とは何か、生きるとは何か、死ぬとは何か、を厳しく自分自身に問いかけずにはいられなくなる。その思考や思いの延長線上に、必ず神の存在が浮かび上がってくるのである。

また、太陽やオーロラも我々の思考を深めさせずにはおかない。南極の太陽は冷やされた空気の屈折によって日の出や日没では形が完全に変形する。激しく伸縮し爆発しながら、時には上部に緑色の炎を噴き上げながら地平線から昇ってきて、爆発しながら沈んでゆく。太陽は激しく生きていることを実感する。純白の山々が、鮮烈になるのも荘厳になるのも、太陽の光があればこそだ。内陸に太陽の光があるからこそ、死の世界ではあっても闇の世界ではないのだ。太陽の動きを追って地吹雪が地を這い、霧が舞い、雪が流れ、波が光る。

南緯75°を越えると、夏期の間、日の出も日没もない。太陽は毎日地平線上を留ることなく回り続ける。極点の周辺には山も丘もない。天地を分けるただ1本の地平線が横に延びるだけである。その360°の空を太陽を追いながら眺めていると、宇宙の広さが、少しずつ理解できるようになる。

冬になれば、日の出も日没もなくなる。24時間、夜空を眺めることになる。時折オーロラが空を彩る。なんの前ぶれもなく、突然緑色の光が夜空を裂く。消えかけた頃、その周辺にたて続けに新たな緑の光が走ることもある。また1本の光の線から数十本の光が別の方向に噴き出すこともある。まさに宇宙の神秘という以外に言葉がない。

オーロラが光る原理を知っていようといまいと、目の前に展開する不可思議は一切の理屈を超えて怪しくて美しくて感嘆の声も出ない。宇宙とは広く深く、かくも神秘に満ちあふれていることを知るのである。

南極は地球上の生きとし生けるものすべてにとって、かけがえのない存在であろう。特に人間にとっては、原初の風景を色濃く残す最後の貴重な大陸であって、全人類の比類なき宝である。この宝を持ち腐れにしてはならないと思う。今日南極条約によれば、南極大陸は学術調査のために開放されており、いかなる国境も存在しないと規定しているが、ただ単に学術調査のみならず、全人類すべてに開放されたものでなくてはならない。むろん環境保全のための厳しい方策は必要である。例えば南極内に建築物を建てないとか、旅行者はすべてテント生活をし、排泄物はもとよりすべてのものを持ち帰るとか、必要ならば罰則規定を作るのも止むを得ないであろうが、ただの物見遊山ではない、南極の不可思議や神秘にふれたいと願う人々を締め出してはならない。

南極の鮮烈、荘厳、神秘な原初の風景の中に身を置くことによって、また南極の森羅万象に凄絶な感動と深遠な畏れを持ち、偉大な精神の存在を感得して、自然に畏敬の念を抱き、精神革命を起こしてくれる人間が現れることのほうが、人類にとって、南極観測よりもよほど重要であることは言をまたない。

20世紀とは、人間が作り出した文明が、人間に向かって挑戦を開始した世紀である。例えば原子力発電所ひとつを取り上げても、日夜を問わず際限なく無尽蔵に出てくる核廃棄物は、3000年にわたって人間の遺伝子に深刻な影響を与え続けるそうである。

科学は、未だに木の葉1枚作れない。科学が人間を幸せにするであろうか、科学が人類を救うであろうか、否である。

今こそアメーバーのごとく増殖肥大する人間の欲望を、宗教的自制心によって抑制するか方向転換しない限り、人類という種に明日はない。人間が人間の原点に回帰し、人間性の回復を図る以外、人類絶滅の危機を乗り越える手だてはないのだ。

▲とじる

本書序文

エディンバラ公 フィリップ殿下

日常生活の諸問題の対処に追われ、現実世界の貧困や紛争等の諸問題の対応策に苦慮していると、我々の視野やものの見方はとかく狭まりがちになる。こうした中で南極大陸のことがたまに話題になったとしても、その意味合いを深く考える間もなく、忘れ去られてしまう。大方の人達にとって南極大陸はあまりに遠く、考え直してみるひまもないというのが実情であろう。しかし、雪と氷に閉ざされたあの南極大陸の景観は、人間が住める地球という宇宙で唯一の惑星が実はどんなに壊れやすいものであるかを我々に教えてくれているのだ。大気圏の構造や仕組みを少しでも人間が狂わせてしまうと、この地球は南極大陸のような氷の世界に変貌するか、あるいは灼熱の砂漠と化す可能性がある。

南極は人間によって蚕食されずに残っている地球最後の大陸である。苛烈な自然条件がこれまで南極を人間の手から守ってきた。しかしこの南極大陸にも、成層圏のオゾンホールの影響が現れつつある。地球上最後の原生地である南極大陸の相貌を浮彫りにするという白川義員氏の雄大な試みは、まさに今しかできないぎりぎりの時宜にかなった企画といえよう。人間がこの地球上に生存し続けることを望むなら、生命を育む自然の体系をもっと大事にすることを学ぶ必要がある。そのためにも、神によって創造された自然の営みのひとつひとつの美しさに対して、我々が胸に抱く畏敬や感動や歓喜の気持ちを素直に自覚することがまず大切であろう。

白川義員氏の最新作であるこの壮大な写真集2巻が畏敬と感動を人々に与え、自然に対する敬虔の念が読者の心にあらためて湧き上がることを祈りたい。

世界自然保護基金・総裁

エドムンド・ヒラリー卿

白川義員氏は卓越した才能をもつ写真家です。同氏による写真集『ヒマラヤ』は世界中の愛好家の垂涎の的になっていますが、最新作『南極大陸』もまさに壮大な作品です。

南極は雪と氷に覆われた白一色の不毛の大陸と思い込んでいる人が少なくありません。それがどんなに認識不足であるかは、白川氏の写真集を見れば一目瞭然です。豊饒な色彩の世界が目のあたりに広がります。純白の雪原、黒い岩塊、無限に変化する青色と緑色の陰影。南極大陸の海岸線は息をのむ美しさです。巨大な流氷。峻烈な氷壁。ペンギンやアザラシや海鳥やシャチの群れ。

内陸には、稜々とそそり立つ峰また峰です。黒い露岩。唆嶮な氷の絶壁。いたる所に巨大な口を開く底知れぬクレバスの深淵。あのすさまじい景観を私は今まざまざと思い出しています。1958年、私は極圏の高原をトラクターを駆って走破し、南極点に達しました。突如として眼前に姿を現すクレバスに車ごと転落する危険に絶えずさらされたあの数か月間の心労は、並み大抵のものではありませんでした。

長く暗い南極大陸の冬にも荘厳な色彩があります。極寒の月夜には、遠くの山々や広漠たる棚氷が銀色に輝くのです。秋の終わりに太陽が最後に沈む時、そして春になって太陽が再び空に昇る時、我々が目にする南極の空の色の美しさはこの世のものとは思われません。陽光を受けた山々の暗い影が果てしなく広がる海氷原の上にどこまでも長く伸びてゆくのです。

そのような南極大陸の相貌や景観の素晴らしさを白川氏は見事に捉えています。あるときは空撮により、あるときは海岸線や山傾からの撮影で、人間の手で汚されていない最後の無垢の大陸というべき南極の美しさを余すところなく我々に見せてくれるのです。

白川氏の写真集を手にする世界中の人々が、南極大陸を憧憬と畏敬の念で見るだけではなく、この地が略奪や絶望とは永遠に締のものとなるよう守って下さることを願っています。

ヒマラヤ援助協会議長・エベレスト第一登頂者

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▲とじる

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PROFILE

1935年愛媛県生。
日本大学芸術学部写真学科卒、
ニッポン放送入社文芸部
プロデューサー、フジテレビを
経てフリー写真家。

WORKS