日本版第一巻
日本版第二巻
日本版第三巻
日本版愛蔵版
本書概要
- 撮影
- 1997~2002年
- 出版
- 日本版 世界百名山 第一巻(ネパール 南北アメリカ)
2001年1月(定価38,000円)小学館
- 日本版 世界百名山 第二巻(パキスタン ヨーロッパ アルプス ほか)
2001年8月(定価38,000円)小学館
- 日本版 世界百名山 第三巻(インド 中国 ほか)
2002年6月(定価38,000円)小学館
- 日本版 世界百名山 愛蔵版
2007年8月(定価12,000円)小学館
■地球上の百名山を決める、しかも歴史の評価に耐える百名山を選ぶとすれば選考するメンバーが重要になる。エドムンド・ヒラリー卿、クリス・ボニントン卿、フランスのモーリス・エルゾーグ氏など世界的に有名な岳人11名に選考委員をお願いした。委員会から提出された110名山すべてを撮影できると考えた人間は選考委員も含めて誰1人いなかった。インドとパキスタン両軍が対峙するカシミール周辺に名山が集中し、地上から近づくことも不可能な山域を航空撮影などできる訳がなかったが、白川が5年にわたって人脈を総動員して史上初めて許可を取得し、そのすべてを白川が航空撮影した。百名山の最終決定を白川にまかされたのは、世界の名山を50山以上実際に見た人間-しかも各々の山を上空360°からつぶさに見た人間は白川以外に誰もいないからである。世界の百名山集成は歴史上初めて、これも前人未到の仕事である。
なお、第一巻巻頭にネパールのビレンドラ国王陛下から序文を賜った。この序文は2000年9月王宮で陛下から白川に直接贈られたものである。1971年発行の作品集『ヒマラヤ』には先王マヘンドラ国王から史上初めての序文を賜っており、親子二代にわたる国王陛下からの序文をいただき白川にとって人生最高の感激であった。
収録作品
サガルマータ(エベレスト)
東壁
マナスル
K2
デナリ(マッキンリー)山
アルパマーヨ
100山選考
1996年の年明け早々から世界百名山の選定作業を開始した。まず誰が見ても納得できる客観性がなくてはならない。
そのためには国際的な選考チームに委ねることが重要である。しかしチームの全員に最初から100山を選んでもらっても議論百出して収拾がつかなくなることは 目に見えている。まず日本国内でたたき台を作ることが先決であろう。当時日本山岳会の常務理事であった伊丹紹泰氏に相談した。彼はすかさず外国の山に精通した国内の登山家や山岳ジャーナリストを網羅した“白川義員世界百名山撮影プロジェクトを支援する会”を組織した。26名から成るそうそうたるメンバーで、会長に吉田宏氏、事務局長に伊丹氏が就任した(資料1)。私が世界百名山選考規準(資料2)を作り、このメンバーに百名山のたたき台120山を推薦してもらうことにしたが、6カ月を過ぎても160山からどうしても削れなくなった。デナリ(マッキンリー山)やキリマンジャロ、ルウェンゾリ、アララット山、ダマヴァンド、カールステンツ・ピラミッドなど地域的にも重要度からも落とせない山々が50座あり、止むなくヒマラヤやカラコルムに豊富な経験と実績をもつ尾形、高見、三谷、山森の4氏に旧ソビエト、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、中国からヒマラヤとカラコルムなどを70座に絞ってもらって120山にした。単純な計算ミスから119山になってしまったが、時間が切迫していたために1996年8月23日、吉田会長から各国の選考委員に9月末日必着で返送してくれるよう締切日を明記して、百名山にふさわしくないと思われる山に×印をつけるよう要請した。同時に119山にリストアップされていないが百名山に加えるべき山岳があれば付け加えてもらいたい旨お願いした。「世界百名山選考委員」10氏はやはり支援する会で推薦してもらって事前に選考委員に就任依頼状を出し、全員から快諾を待ていた。その後日本人も1人入るべきだとの意見が出て重廣恒夫氏に重任してもらった。世界百名山選考委員は資料3の通りである。
選考委員がつけた×印は、委員個々の性格や山の好みが出ていて興味深いので、資料4として第一巻(170、171ぺージ)のように紹介した。返送されたリストを集計し、4名以上の選考委員が×印をつけた山は中国のカントーを含めて20山あり、これらは原則として削除することにしたが、なかにはコムニズム峰のように、ロシア、中央アジア地域の最高峰も含まれていて、これら特殊な山6山は復活させた。また119山にリストアップされていない山で、百名山に加えるべき山については、複数の選考委員から推薦ある山は自動的に加えることにした。それらはチャンガバン(インド)、セロ・トーレ(アルゼンチン)、ヒリシャンカ(ペルー)、レーニン峰(タジキスタン)の4峰である。推薦は1人だが重廣氏がニルカンタ(インド)を強力に推したためにこれも加えて追加は計5山になった。選考委員が追加推薦した山はやはり自国の山が多い。イタリアに住むディムベルガー氏はドロミテの山が1山も入らないのはおかしいと解説つきで2山を推薦した。ロシアのミスロフスキー氏は9山のうち5山が旧ソビエトの山、インドのカバディア氏の推薦する6山はすべてインドの山である。アメリカのリード氏は1山を推したが、これはアメリカのマッターホルンと呼ばれるグランド・テトンである。私が若い頃に見た映画「シェーン」のラストシーンで馬に乗って去り行くガンマンに子供が“シェーン カンバック”と叫ぶ感動的なシーンが今でも思い出されるが、そのバックの美しい山がグランド・テトンである。しかしこれも残念ながらはずさざるを得なかった。結局たたき台としてリストアップした119山から20山を削除し、その中から6山を復活させ、5山を追加公認したから合計110山になった。この110山を私がすべて撮影することになるのであるが、撮影紀行にも書いたように地元の登山ガイド組合などの推薦する山も撮ったから結局127の名山を撮影した。東西南北からよく観察した印象も加味して、最終的に私が100名山を決定した。とにかく名山を100山も眺めた人間など世界に1人も存在しないのである。山を実際に見ないで比較することなどできるわけがないので、最終的に私が選択するのは止むを得ない。選考委員もその点をよく承知していて最終判断は私にまかせてくれている。特に私の場合は航空機で1つの山を東西南北360度から眺めるので、地上から一方向や二方向から見ただけで山を云々するのとはこれも訳が違うのである。
複数の選考委員が推薦したが追加しなかった山が1山ある。それはギリシャのオリンポス山である。私が作った選考規準に「信仰の対象になっている山」という一項があったせいで推薦したのかも知れないが、いうまでもなく、オリンポスはギリシャ神話の神々が集う山である。しかしこのギリシャの神々というのは人間よりも世俗的であることはよく知られている。例えば、ある神が自分の妻である神の浮気に気づいてその現場を押さえることを企てる。そして妻の神と浮気相手の神がベッドにいるところを天から巨大な網を落として絡め取る話など、いずれにしてもなんとも世俗的というか低俗で、私が想い描いている神とは対極にある。私のいう神とは人知をはるかに超えた偉大で巨大な精神の存在であって、ギリシャ神話に出てくるような面白ければいいというような漫画の世界の神ではないのだ。だから支援する会の人たちと相談のうえ、オリンポス山は百名山に追加しなかった。
中国のカントーは選考委員全員無印だった。恐らくこの山についての情報が皆無であるために判断のしようがなかったと解釈して削除した。選考委員のディムベルガー氏はハワイのマウナ・ケアを推薦した。発想を変えればこの山は面白いのである。つまり山の底辺から測ればこの山は海底から10000mあってエベレストより高い。私も一時追加すべきか悩んだが富士山を見て断念した。富士山頂にはかつての気象観測レーダーが残っていて、これが望遠レンズで操ると完全に写るのである。レーダー・ドームがたった1個でも写真が壊れる。それがマウナ・ケアの山頂には何個ものドームがあってとても写真にならないし、私の百名山の撮影意図にも反しているから追加しなかった。
(2000年8月20日記)
110名山リストからは最終的に10山を落とさなくてはならないが、第一巻の南米で110名山に入ってない山を一山選んだから実際には13山を落とすことになる。第三巻に掲載予定の山々からは中国のコングール、インドのヌン、トリスル、チャンガバン、日本の阿蘇山の5山を落とした。
まずコングール。この山は7719mあり削除した山の中では最も高いが、あえて落とした。理由は選考規準に満たないからである。雄大壮大でない。特に西方向からがいけない。丘の上に塔が立っているようでこれ程高い山であるにもかかわらず極めて貧相である。作品集『中国大陸』には掲載したが、世界百名山としてはいただけない。タリム盆地方向からもII峰を加えれば格好はつくが、それでも間が抜ける。
インドのヌン。雪や氷が少なくて日本の春山を見ているようで弱い。ただ左右に峰が立って格好は独自である。トリスルは一見スキー場を想わせる。東北面などは実際問題としてスキー滑降には快適だと思う。それだけにずんぐりむっくりしていて鋭さに欠けるし風格もない。チャンガバンは見る角度によって山容が完全に変化し面白い山であるが、なにせ小さくて貧弱であった。
阿蘇山はかつて私が「ヒマラヤ」を撮影していた頃、『ヒマラヤ』制作の唯一人の理解者だった深田久弥氏から世界百名山をやるなら阿蘇を入れるべきという話をうかがっていたからぜひ入れたかった。阿蘇は世界最大のカルデラである。その陥没してできたくぼ地にいくつもの集落があり、鉄道が通っている世界で唯一の火山である。しかしこの文章にした数行を写真で表現するとなると極めて至難な作業になる。高度10000mから全体を撮ったとしても地図のような写真が感動的であるはずはない。しかも今回の『世界百名山』ではこの山は異質であるから削除した。
結局、世界百名山選考委員会が選定した110名山中、第一巻のネパール、南北アメリカで5山、第二巻のパキスタンから3山、第三巻中国、インド、その他の国から5山、計13山を削除した。第一巻の南米で110名山に選ばれてなかった山を3山加えたから最終的にこれで100名山が確定したことになる。
これら116山の他に11山を撮ったがやはり使用しなかった。ちなみにネパールではタムセルク、カンテガ、ガネッシュ・ヒマール、P29、ラムジュン・ヒマール、北米のハンティントンは3730mと低いがやはり素晴らしい山であった。パキスタンではイストル・オ・ナール、カンピレ・ディオール、シスパーレ、ブラルン・サール、カンジュト・サールである。結局全部で127名山を撮影した。
100名山を選ぶについて最も重要な要素はその人間に選ぶ高度な眼力つまり、高い人間精神と経験があるかどうかである。私は40年にわたって世界の名山を撮影してきた。30年にわたって毎年二科展を審査し、地方の県展や美術展の審査・監査を数多く手がけてきた。外国でも多く審査を経験しているから、山だけでなく人間や動植物を含めて美を識別し、取捨選択する能力は他に劣るとは思っていない。ただ今回の100名山選定は地域性と歴史性を考慮している。例えば7大陸の最高峰はすべて収録したし歴史的には人類の精神史に重要なかかわりのあるシナイ山や登山史上必要なウシュバを選んだ。これも重要な一点であると思うが考え方の違いで山は高さと形がすべてという判断に立てば、数山について入れ替える可能性は否定しない。私は可能な限り世界百名山選考委員会が選出した110名山に忠実に従いながら自己の良心と確信によってこの『世界百名山』を確定した。
(2002年1月3日記)
資料1 “白川義員世界百名山撮影プロジェクトを支援する会”
- 故吉田 宏(会長)
- 伊丹紹泰(事務局長)
- 貫田宗男(事務局)
- 古野 淳(事務局)
- 岩崎元郎、江本嘉伸、尾形好雄、鹿野勝彦、神崎忠男、斎藤惇生、佐藤芳夫、重廣恒夫、故高見和成、故中村 進、橋本 清、原 眞、故原田達也、故広島三朗、本郷三好、三谷統一郎、村井龍一、八木原圀明、山本 篤、山本宗彦、山森欣一、湯浅道男
(50音順)
資料2 世界百名山選考規準(白川義員作成)
- 1 雄大、壮大、荘厳であること。鋭さも必要だが、なによりも品性高く、格調高い山であること。
- 2 独自の風格をもつ山。
- 3 人類の精神史に重要な関わりをもった山。たとえば、シナイ山のような山。
- 4 敬虔な信仰の対象になっている山。たとえば、マチャプチャレのような山。
- 5 高さの順に選ぶわけではないが、高さも重要な要素となる。
- 6 登山史上、有名な山。
資料3 世界百名山選考委員
- クリス・ボニントン脚(イギリス)/Sir Christian Bonington C.B.E.
- クルト・ディムベルガー(イタリア)/Mr.Kurt Diemberger
- 王富洲(中国)/Mr.Wang Fuzhou
- モーリス・エルゾーグ(フランス)/Mr.Maurice Herzog
- エドムンド・ヒラリー卿(ニュージーランド)/Sir Edmund Hillary
- ハリッシュ・カパディア(インド)/Mr.Harish Kapadia
- エドアルド・ミスロフスキー(ロシア)/Mr.Edouard Myslovski
- アル・リード(アメリカ)/Mr.AI Read
- ナジール・サビール(パキスタン)/Mr.Nazir Sabir
- ペルテンバ・シェルパ(ネパール)/Mr.Pertemba Sherpa
- 重廣恒夫(日本)/Mr.Tsuneo Shigehiro
(アルファベット順)
本書のあとがき
一巻
ランドサットの出現で地球上の高峰はすべて洗い出されて、今後新しい高山や名山が発見されることはあり得ない。
40年昔私がプロとして独立した際、一生をかけて取り組むべきテーマの中に「世界百名山」があったが、それが後回しになっていった最大の理由は百名山の完成後に中国とビルマの国境辺りで名山高峰が何峰か発見されたら、それこそ仕事のやり直しになる。この一点を最も恐れたのである。そしてやるならば全世界の名山高峰が出揃った今をおいてほかにない。
1982年4月に朝日新聞社から発行された写真集『白川義員』のあとがきにも、これから手がける仕事として「仏教伝来」「南極大陸」「世界百名山」と活字で発表していて、これが近頃の百名山ブームに便乗した企画でないことを明記しておきたい。「世界百名山」をスタートさせた第二の理由は、この撮影プロジェクトを支援する会のメンバーの中にインドや中国の政府の中枢に太いパイプをもった人たちがいて、撮影の許可取得が今度こそ可能になると信じたからである。
世界の名山を思い浮かべると許可取得の困難な地域は数多い。ウガンダのルウェンゾリはコンゴとの国境にあって政府軍と反政府軍が戦闘をくり返している。かつてのニューギニアにあるイリアンジャヤのカールステンツ・ピラミッドも許可取得は容易ではない。しかし最も困難なのはインドどパキスタンである。この2カ国だけで35座の名山があり、これが抜け落ちたら世界百名山など成り立ち得ない。特にインドは絶望的で、かつて私が30数年昔制作した『ヒマラヤ』では4年間も外務省と現地大使館の全面支援のもとに許可申請をくり返したが、許可は1峰もなく全滅だった。中・印戦争以来、そしてその後幾次にもわたる印・パ紛争もあって、インド・ヒマラヤの山中は要塞化されて軍隊が充満しているといううわさである。したがって「世界百名山」は撮影許可取得について確たる可能性がない限り、何の現実性もないのである。
さてこの『世界百名山』は『アルプス』『ヒマラヤ』『アメリカ大陸』『聖書の世界』『中国大陸』『神々の原風景』『仏教伝来』『南極大陸』に続く私の"地球再発見による人間性回復へ"シリーズの第9作として制作したもので、我々が棲む地球がまさにかけがえのない奇跡の惑星である事実を再発見、再認識しようというその目的と意図はこれまで通りで何も変わらない。地球は悠久無限の宇宙にあってケシ粒のごとき存在でしかない。しかしこのケシ粒以外に素手で生存できる星はないのだ。地球は人類を乗せて無限の宇宙に浮遊する1個の宇宙船であって、運命共同体であることを再発見、再認識する。そしてこのケシ粒がいかに鮮烈で荘厳で神秘な美しさに満ちていることか。数カ月前私は初めて許可されてパキスタン・カラコルムを上空から徹底的に撮った。それは見渡す限り無数の山で埋めつくされた壮大なパノラマで、私がいう原初の風景が目のあたりに展開して息をのんだ。これらの写真は第二巻に掲載するが、この第I巻から三巻までを通して見ていただければそれが事実であると納得していただけると信じている。そして撮影時の目がくらむような感動を全世界の人々に紹介することによって国境も言語も民族も超えてあらゆる人たちがこの運命共同体の将来を考えるに至るということにならないものか。そうなってほしいとの心からの願いをこめて、今度もまた「世界百名山」を撮った。そしてこれが私のいう“地球再発見”の意味である。
表現の分野は広い。例えば文学も音楽も絵画もある。その中で私の思想や信条であるところの「地球がこれほどまでに鮮烈で荘厳なのだ」というたったの1行を表現するとして、文学で表現したばあい、いったい誰がそれを事実として信じるであろうかと思う。リヒアルト・シュトラウスのアルペン・シンフォニーは確かにすばらしい。芸術作品として誰しも感動するであろう。しかし感動する心と事実であるかどうかは別個の問題になる。私の思想や理念は写真でしか表現できない。写真はカメラという機械がレンズの前にある事実をそのまま再現する。写真で表現したものは人間が勝手に絵筆で措いた絵ではない。私がいう“地球はかくも鮮烈で荘厳”という一事が、もしかして本当かも知れないと思うし、写真なら事実に違いないと信じるのである。近頃コンピューター処理した合成写真などが流行しているが、これらは不自然であるから一目で分かる。自然なストレート写真に比べ合成写真は全体が不自然であり、写真的には全く安っぽくて貧しいし、真実味もない。
この写真が実存の表現であるからこそ可能になる第二の目的、私にとっては二つ目の心からの願いであるが、それが“人間性回復へ”である。“地球再発見”が“地球再発見による人間性回復へ”と進化していった理由と"人間性回復へ"の意味については第II巻のあとがきでくわしく書きたいと思っている。
二巻
今なぜ『世界百名山』か、その制作の第一の理由については第I巻に書いた。ここでは第二の理由と共になぜ私は写真を撮るのかについても言及したいと思う。
私は10000年を待たずして人類は絶滅すると二十数年前から書いてきた。読者にはまるで絵空事のよう思われていたかも知れないが、昨年10月イギリスの著名な物理学者スティーヴン・ホーキング博士が、人類は1000年以内に滅亡すると発表し、日本の新聞や週刊誌が報道するに及んで、私の説も急に注目を浴びる格好になった。私が撮る写真は人類が絶滅から免れるために、人間いま、いかに生きるべきかを問うているのである。つまり"地球再発見による人間性回復へ"の理論であるが、地球再発見については第I巻に書いたからここでは人間の魂の復興と、今こそ人間の精神革命なくして人類は生き延びられないであろう事実について言及したい。
1968年私は『ヒマラヤ』の撮影を開始した。東西3000kmに及ぶ人里から完全に隔絶された巨大な山塊である。この中で幾度も高山病で生死の境をさまよい、何十万トンという氷と雪が所かまわず落ちてくる雪崩に襲われて逃げまどい、8日間も豪雪に閉じ込められて、食糧がなくなり、4日間絶食したあと2日2晩歩き通しの脱出行をした。豪雪で食物がなくなった野生のヤクの襲撃を受けて九死一生を得たり、山を下ってから生きていることが理論的に説明できない不思議と、人間などはかない一点の命に過ぎない事実をつくづくと思い知らされて、私はついに神を信じるに至るのである。
次の『アメリカ大陸』ではアメリカの原野に神の存在を証明して見せる仕事であった。朝、地平線からどろどろと燃えたぎる太陽が昇ってくるだけで、それは凄絶な感動であった。これらの体験を通して、私は猿人が人間になった理由をはっきり確信したのである。300万年昔、我々の祖先である猿人がこの惑星に現れて、彼らは大自然が演じるドラマ、太陽や月や星や、雲や霧や嵐や雷鳴や、その森羅万象に凄絶な感動と深遠な畏れをもったに違いないのである。そして彼らは自然とその背後の宇宙に遍満する偉大な精神の存在を感得するに至ったのである。人間の力や思考など及びもつかないはるかに超えた偉大で巨大な精神の存在、一言でいうなら神、天といってもいい、その存在に彼らは畏敬の念をもち、敬虔の祈りを捧げたのである。つまり彼らは宗教心をもった。神の前にやってはならない事象をしかと心得て厳しい自己抑制のもとに精神的発展をとげた。そして信仰心が精神革命を起こして猿人が人間に至るのである。現代の私が自分の体験からこう信じるのであるから、文明の利器など何もない300万年昔の彼らには偉大な精神の存在をもっと直線的に強烈に圧倒的に感得したであろうと思う。余計なことだが今日の犬や猫がいつまでも動物であるのは彼らに大自然が発するメッセージを感得する感性がないからである。もし感性があったなら、彼らも信仰心をもって精神革命を起こして人権や尊厳をもつに至るであろうが、残念ながらそれがないだけの話で、神は猿人だけに特権的感性を付与していたのである。
さて人類絶滅の要因は核兵器を持ち出すまでもなく幾つもある。環境問題一つを取り上げても極めて深刻である。その中の一つ、例えば原子力発電も必要悪として認められているが、発電所から出る核廃棄物は市川定夫氏の説によれば3000年間人間の遺伝子に悪影響し続けるのだそうである。そして重要なことは自然界の放射能は排泄されるが、廃棄物等の人工放射能は排泄されないまま人体に一生蓄積されていく。いま地球上にある原子力発電所を全部一挙に停止しても、これから3000年間人間に影響し続ける。しかも停止できる訳がないから核廃棄物は未来永劫、無尽蔵に際限なく出て来る。
思想も哲学も宗教も今日混迷の極みだが、これらも含めていま人間に緊急に必要な要件、それは人間の魂の復興、人間性の回復、人間の精神革命をおいて他にない。環境問題もエネルギー問題も人口爆発も民族紛争も何もかも精神革命なくして何一つ解決し得ないのではないか。いま我々に必要なのは精神革命を起こして人間になった300万年昔の素朴な猿人の思想と精神に回帰すること、彼らがもった宗教的自制心から出発すること以外にないであろうと思う。人間は自然の一部であることをしかと認識し、自然とその背後に遍満する偉大で巨大な精神の存在に向き合うことである。『アメリカ大陸』に掲載したモニュメント・ヴァレの写真は真っ赤だった。この写真に興味を示したのは西部劇ファンの方々だった。それはジョン・フォードの「駅馬車」がモノクローム映画であったために、モニュメント・ヴァレが赤くなることに疑問をもったのである。
私が指定した11月に彼らは検証に出かけた。そして私の写真同様に真っ赤になったモニュメント・ヴァレの真ん中に立って震えるような感動を味わったという。それが口コミで伝わり、赤いモニュメント・ヴァレを見るツアーが始まった。マッターホルンについては作品解説や紀行文でも書いたが、私が撮影したリッフェル湖には日本からだけでも年間10万人を超える人たちが訪れている。1枚の写真が世に与える影響は決して小さくはない。私が撮影した「原初の風景」によって神を想う人がふえてくれるならば、また「原初の風景」に触発されて写真の現地に立って自然が発するメッセージや偉大な精神の存在を感得して下さる方々が多くなるならば、私の仕事は無駄ではなかったと思うのである。
プロ写真家として独立して39年間、もとより拙い仕事ではあったけれども心からの願いを込めてただ一途に「聖なる風景」「神々の世界」を撮り続けてきた。これからも生ある限り精神革命に向けて1枚ずつ撮り続けて行きたいと思っている。
三巻
第一巻と第二巻のあとがきで、私がなぜ『世界百名山』を制作したか、その目的と理念を書いた。ここでは私が写真を撮る行為における基本的なスタンスについて書きたい。
1962年5月1日から私はたった1人で世界一周8カ月間35ヵ国の旅をして、そのままヨーロッパに引き返し6年間のヨーロッパ・アルプスの撮影に入った。当時は外国旅行が自由化される前でどこに行ってもほとんど日本人には会わなかった。そしてオランダとスイスで各1回道路を歩いていて、突然頭から水をぶっかけられた。彼らは軽蔑に満ちた顔を私に向けて、向こうに行けというゼスチュアをしていたから紛れもなく確信犯である。ツェルマットで一度重病をしたが、患者が日本人と分かると医者は往診してくれない。山小屋を転々として撮影する間、私の片隣りにはガイドが寝るが、一方の片隣りには小屋が満員であっても絶対に誰も私の隣りには寝なかった。明日から天気が回復するというので深いガスの中をクライネシャイデックから登山電車でユングフラウヨッホに登り宿泊を申し出た。翌朝そこから朝焼けの風景を撮りたかったのである。国籍を聞かれたから日本人だと言ってパスポートを見せた。彼らは泊めてやらない、出て行けと言った。なぜですかと聞いたから余計に腹を立てたようである。突然女性が台所から包丁を持ち出して私の胸に突きつけてきた。私は後ずさりして玄関を出て、この辺りには夜を過ごす場所がないから次の電車でグリンデンワルドに下って駅前のバンホフホテルに泊めてもらった。当時、私を人間扱いしてくれたのはバンホフホテルくらいのものであった。至る所で激しい人種差別に遭った。ウソのような話であるが全部事実である。アルプスは6年も撮影を続けたから親しくなる人もいた。ボルザノに住むドロミテのガイド、グエンター・ガッサー氏などである。彼とはすっかり意気投合してよく彼の家に遊びにも行った。イタリア人特有の丸々と太った母親がいつも手料理を作って歓待してくれた。数年たってから維談の中で日本人はなぜかくも軽蔑されるのだろうと彼にたずねた。彼は事もなげに、それは日本人は人真似ばかりするからだよと言った。許しがたい屈辱をしょっ中受けている最中であったから、この一言が身にしみた。そしてこの一言が私のその後の生き方を決めたのである。
その後、撮影許可取得で各国の高官と会う際にも時折りこの日本人の物真似の話は出た。南極一周の際パイロットのトラブルで衛星電話を借りるため、毎日のようにゴンドワナ・ドイツ基地に通ったが、この所長も日本人は他人の特許権ぎりぎりの模造品を作る。それを大量生産して集中豪雨のように輸出して他国の製造業を片はしから潰していると、日本人を代表して私が相当に文句を言われた。日本の高度経済成長は日本人が軽蔑を受ける代償の上に成り立ったことも、ある部分では事実であると思うのである。
私はグエンクー・ガッサー氏の一言で、少なくとも自分は写真を撮るという行為で、人真似だけは絶対にやらない、二番煎じも絶対にやらない。前人未到の仕事をやると心に決めたのである。彼らが日本人をコピーキャトのイエローモンキーと見ているのであれば、少なくとも私だけは独自独創で行くと決心したのである。だから私の最初の作品集『アルプス』は日の出と日没の前後を集中的に撮影した絢欄たる色彩絵巻だった。この私の『アルプス』以前に強烈な色彩の風景写真は世界に1枚たりともなかった。もしあるというならば見せてもらいたい。私の『アルプス』『ヒマラヤ』がその後の世界のカラーによる風景写真の方向を一変させた事実は誰にも否定できないであろう。そして『聖書の世界』以降はすべて前人未到の仕事であったと思っている。それらを証明する余白はないが、例えば前作の『南極大陸』にしても一周に成功したのは私が史上初めてで、写真を撮ることなど関係なく前人未到の仕事を完成させたし、写真でいうならば、学者が机上で計算した南極圏が南緯66゜33′であることを私が写真で実証した。これ一事をもってしても前人未到の仕事であった。
さて『世界百名山』である。40年前に立案した企画が今日に及んだ理由は第I巻あとがき冒頭に書いた。しかしランドサットが出現して全世界の名山高峰が出揃ったら、この企画・名山集成は世界の誰かが必ずやるに決まっている。これも前人未到の仕事である。ならばぜひ私がやりたい。だからただちに立ち上がったし、スタートについては記者会見をして発表した。外国に対しては吉田宏氏が全世界にヒマラヤ情報を発信しているインドの『ヒマラヤン・ジャーナル』誌に私が撮影を開始したとニューズレターを掲載して下さった。
しかしヒラリー卿やボニントン卿など11名で構成された世界百名山選考委員会が選出した110名山を当時全部実際に撮影できると考えた人間は世界に1人もいなかったと思う。私自身も考えていなかった。全力を挙げてあらゆる人脈とルートを通して人知の限りをつくして撮影許可を取る。そして撮れる所までは徹底的に撮影する。しかしパキスタンやインドや中国では3分の1や5分の1の山については不許可になるだろうと覚悟をしていた。それらは何十年かかろうと執拗に許可交渉を繰り返して、次作の「世界百名瀑」と同時撮影しながら一生かけて完成させると決めていた。前人未到の仕事ならばそれでもやり甲斐はあると自分に言い聞かせていた。
それがすべて撮影できた。110名山どころか私が撮りたいと念じていた127名山すべてを撮影することができた。何もかも撮りたい山を全部撮影できたという事実を、いま、私自身が信じられないでいる。
9月11日にニューヨークで同時多発テロが発生した。今アフガニスタンは戦場と化し、パキスタンも中央アジアも周辺国はこの戦いに完全に巻き込まれている。カシミールにおけるパキスタンに対してインドも臨戦態勢にある。両国共に核兵器も辞さずと発言するほど緊迫している。中国は外国登山隊に発給した登山許可をすべて取り消した。撮影が1年遅れていたら『世界百名山』は少なくともこの先数十年は完成しなかったに違いない。ネパール空撮における航空事故で頸椎と腰椎を骨折して生き返った事実も含め、すべて神のご加護のたまものである。万感の想いと感謝を神に捧げてこの稿を終える。
本書序文
ネパール国王陛下
ビレンドラ・ビル・ビクラム・シヤー・デブ陛下からのメッセージ
白川義員氏が『世界百名山』という山岳写真集を出版されると聞き同慶の至りです。同氏の写真集『ヒマラヤ』が発行されてから30年経ちました。世界中の人々が、雄大なヒマラヤ山脈の永遠の美を認めかつ賞賛するようになったのは、この写真集『ヒマラヤ』の寄与するところが大であり、同時に、この写真集はヒマラヤ山脈の中にある国々をも世界に紹介してくれました。標高8000メートルを超える14峰のうちの8峰が我がネパール国内にあるというまぎれもない事実の重みを感じます。
今回上梓された写真集は、山を愛してやまない白川氏がその全身全霊を傾けた努力と研究調査のまさに集大成ともいえるものです。私は、この写真集が、その充実した内容とこの上ない美しさゆえに、熱烈な山岳愛好家はもとより、ごく普通の人々にも喜んで迎え入れられる作品であると確信いたします。この写真集のぺージをめくる度に、われわれがいかにすばらしい自然の美に恵まれているかということ、またこれらの壊れやすい生態系をわれわれの子孫に残すためにお互いに支えあう義務があるということを理解していただきたいと思います。
2000年9月22日